赤紙ーみいけの年表

平成13年5月3日
 三池じん肺訴訟 三井建設と和解
 福岡県大牟田市の旧三井三池炭鉱で働き、多量の粉じんを吸い込んでじん肺になった元従業員と遺族257人が、三井鉱山など 三井系企業3社を相手取り総額約48億円の損害賠償を求めた「三池じん肺訴訟」で、三井建設と原告20人との和解が2日午前、 福岡地裁で成立した。残る三井鉱山と三井石炭鉱業は裁判での決着を主張している。

平成13年7月20日
 筑豊じん肺 国も責任 福岡高裁が初の認定 時効適用は権利乱用
 福岡県筑豊地方の炭鉱で働き、職業病のじん肺になった元鉱員125人(うち95人死亡)と遺族計431人が国と三井鉱山、三井石炭 鉱業、日鉄鉱業の3社に計約40億円の損害賠償を求めた「筑豊じん肺訴訟」控訴審の判決が19日あった。裁判長は、最大の争点だっ た国の責任について「じん肺防止のための規制権限を適切に行使しておらず、許される裁量の限度を逸脱した」と認定し、企業責任 だけを認めた一審判決を変更、国、企業3社に総額約19億1200万円の支払いを命じた。(西日本新聞より抜粋)

平成13年10月29日
 池島炭鉱の閉鎖に労組が合意
 池島炭鉱(長崎県外海町)の閉山問題で、松島炭鉱労働組合(組合員約600人)は28日、会社が示した11月29日での 閉山について、条件闘争を前提に受け入れを決めた。
(産経新聞より抜粋)

平成13年11月26日
 いよいよ九州から、ヤマ(炭鉱)が消える。西海の小島で細々と生き続けた池島炭鉱(長崎県外海町)が29日閉山する。 炭鉱が身近な存在だった多くの人たちは「ふるさと」が消えるような愛惜の思いにかられるだろう。
 ヤマは、「共生共死」の社会だ。地下の大工場で働く炭鉱マンは、堀削、換気、輸送などに分かれ、協力し合う。仲間に 助けられ、親、兄弟、親友を事故で失いながら生きてきた人たちだ。地上の生活にも助け合いは欠かせない。
 池島の操業開始は1959年、三池炭鉱(福岡県大牟田市)の大争議が始まった年だ。もともと電気も水道も無かった島に優 良鉱が出来、今は約2300人が暮らす。電気は炭鉱の変電設備で、水は海水淡水化装置で各戸に送られ、病院は社有。炭鉱マ ンは賃金カットに同意して存続を訴えてきた。
 「炭鉱マンの顔がいい。日本人の男にやっと出会えた思い」。来春に閉山予定の国内最後の炭鉱、太平洋炭鉱(北海道釧 路市)などを記録した映画「闇を掘る」を各地で上映している藤本幸久監督は振り返る。謙虚で、おおらかで、人と深くか かわって生きてきた姿がその顔ににじんでいた。
 映画には、炭鉱で暮らした3家族が閉山後も年に1度、炭鉱長屋のあった場所に集う光景がある。血縁、地縁が薄れ、個々 人がばらばらになる時代の中で、「共に生きた」という実感を再確認しているようだった。「炭鉱で生きた人には”私たち” が今も息づいている」と藤本監督は言う。
 石炭から石油へのエネルギー革命のとき、離職者への手厚い援護がなされた。構造改革がいわれ、雇用状況が悪化する現在、 援護の声は届きにくい。ヤマの灯は消えても、互いに支え合う「私たち」という共生感覚は受け継ぎたい。(毎日新聞「余禄」より)

平成13年12月8日
 太平洋炭鉱、閉山へ
 国内最後の炭鉱、太平洋炭鉱(本社・北海道釧路市)は7日、商業採炭を30日で終了し、平成14年1月末に閉山すると発表した。 同社の操業81年の歴史とともに国内の石炭産業は幕を閉じることになった。閉山の理由として、2月の坑内火災による操業停止の 影響や採掘条件の悪化などを挙げた。下請けを含め1500人余りに上る従業員は閉山と同時に全員が解雇されるという。閉山後は、 地元企業などが新会社を設立し、アジア各国への炭鉱技術移転を目的に、小規模の採炭を行っていく方針。
(産経新聞より抜粋)

平成13年12月17日
 損賠請求の時効焦点 三池じん肺訴訟あす判決 福岡地裁
 平成9年に閉山した三井三池炭鉱で働き、じん肺になった元作業員の患者102人と、亡くなった患者47人の計257人が、炭鉱を経営 していた三井鉱山と三井石炭の2社に約47億円の損害賠償を求めた「三池じん肺訴訟」の判決が18日、福岡地裁で言い渡される。 訴えによると、原告患者は採炭作業などに従事。企業は適切な粉じん対策を実施せず、作業員への安全配慮義務などを怠ったと している。(産経新聞より抜粋)

平成13年12月19日
 「時効なんて絶対許さん」三池じん肺訴訟43人の訴え届かず 喜びと悔しさ交錯
 全員を救済してほしかったー。福岡地裁で18日に言い渡された三池じん肺訴訟判決は、企業責任を厳しく断罪し、一部で司法的な 救済範囲を広げたとはいえ、時効の壁で43人の訴えは退けた。「なぜ、じん肺に時効を認めるのか」。原告らの間に喜びと悔しさ が交錯した。
 「なぜ会社はじん肺の怖さを教えてくれなかったのか。自分の無知も含めて悔しい。自分も悪くなっていくのだろうか」。平成 9年の閉山直前に三井石炭鉱業を退職した原告団副団長の積さん(59)は自問自答するようにつぶやく。第二次提訴に加わってから 約4年。高齢の患者たちが次々と亡くなる一方、裁判で患者発生の責任を逃れようとする会社の姿勢を目の当たりにしてきた積さん は、会社への失望感とともに怒りを口にした。「在職中は三井で働いている誇りもあった。一生懸命働いてじん肺になったのに 謝罪の言葉もない。会社の対応は許せない」(熊本日日新聞より抜粋)

平成14年4月27日
 中国人強制連行 三井鉱山に賠償命令 福岡地裁判決 初の企業責任
 戦時中、福岡県の三井三池鉱と田川鉱に強制連行された中国人男性15人が、国と三井鉱山に計3億4500万円の損害賠償などを 求めた訴訟で、福岡地裁は三井鉱山に一人当たり1100万円、計1億6500万円の支払いを命じた。国への請求は、戦前には国家 賠償法がなく退けたが、木村裁判長は「強制連行・労働は国と三井鉱山が共同して計画、実行した」と認定。被害から20年で 請求権が消える除斥期間を三井鉱山に適用しなかった。強制連行訴訟で企業の賠償を命じた判決は初めて。
 判決は「国策として強制的に連行した」とし、労働環境も「居住、食糧事情、従業員の暴力などで劣悪、過酷だった」とした。 さらに「三井鉱山は原告らに労働の対価を払わなかったのに、これを支払ったようにして国から現在の貨幣価値で数十億円もの 補償をだまし取った」ことを挙げ「過酷な待遇で強制労働をさせた態度は非常に悪質」と指弾した。(毎日新聞より抜粋)

平成15年9月2日
 再生機構 三井鉱山の支援決定 金融機関 債権放棄など1710億円
 産業再生機構は1日、産業再生委員会を開き、東証1部上場の三井鉱山と関連会社3社の支援を決定した。
 三井鉱山は主力行などから債権放棄を含む1710億円の金融支援を受けて経営陣を一新し、事業を絞り込んで再生を目指す。 経済産業省も1日、三井鉱山に産業再生法の適用を認定した。
 三井鉱山は、セメント事業から早期に撤退する一方で、水処理など公害防止の機械関連事業と、石炭やコークスなどエネルギー 関連事業の2事業に絞り込む。社長以下取締役10人全員を退任させて退職慰労金も放棄させ、希望退職で人員を611人(現在726人) に減らす。三井鉱山と三井鉱山コークス、三井鉱山物流を合併し、名称は「三井鉱山」とする。
 戦後の石炭産業を支えた名門企業だが、三井住友銀行は「冠にこだわるよりも、再生が優先」と判断し、「使える道具は利用す る」という現実的な考え方を優先させた。
 西野三井鉱山社長は1日、東京証券取引所で会見し、「日本経済の発展と復興に寄与してきたが、自ら処理しなければならない 鉱害、じん肺問題など負の遺産について、みなさまに多大な負担をお願いして申し訳ない」と述べ、頭を下げた。産業再生機構の 支援に至るまで手を打てなかったことについては「トップとしての考え方、先見性に欠けていたことが原因で、私の不徳のいたす ところだ」と述べた。(毎日新聞より抜粋)

平成15年10月14日
 争議、分裂、閉山・・・旗掲げ続け57年 三池労組解散へ
 三池労組は1946年、旧三井三池炭鉱の宮浦鉱や四山、三川など各鉱の組合が一緒になって結成。三池争議では、人員削減や組合 幹部の指名解雇をめぐって会社側と激しく対立した。
 63年には、死者458人、一酸化炭素(CO)中毒患者839人という戦後最悪の三川鉱炭じん爆発事故が発生。会社側の責任を追及 し、完全補償を求める「CO闘争」に突入する。患者の生活補償を訴えて国に特別措置法の制定を要求。遺族らへの損害補償を求 めた訴訟でも中心的な役割を果たした。
 しかし、組合員数は、組合分裂や炭鉱斜陽化による他産業への再就職で年々減少。97年の閉山を受けて三池炭鉱新労働組合は解 散したが、三池労組は存続し、約700人の労組OBの支援を受けながら、CO患者の支援や争議・炭じん爆発などの資料保存に努め ていた。
 今後は解散までに、CO患者33人が入院する大牟田労災病院の存続を国に求めるほか、坑内事故犠牲者の祈念碑の保存方法を決 めるという。
 芳川組合長は「命がけの炭鉱の仕事だけに、自分の暮らしを守ろうとみんな精一杯だった。今の労組と比べ、組合員の中に「働 く仲間」の意識が強かったと思う。解散は寂しいが、閉山後の離職者支援やCO問題で組合としての役割を果たせた」と述懐した。  初代組合長を務めた阿具根さん(91歳)=東京都=は「三池労組は私の出発点。残念だが、炭鉱がなくなってからも解散せずに よく頑張ってくれた」と、後輩たちの労をねぎらっている。(西日本新聞夕刊より)

平成15年10月31日
 三川鉱炭じん爆発事故 被災者の一酸化炭素(CO)中毒患者 一斉検診
 大牟田労災病院などにまだCO患者33名が入院している。

平成15年11月18日
 国を響かせた”ラッパ”前夕張市長 中田鉄治さん、2003年9月10日死去 77歳
 今年4月の退任まで6期24年、北海道夕張市長を務めた中田さんは、かつての「炭都」を「観光のまち」として再生させようと、 小さな体に情熱を人一倍みなぎらせた。
 夕張市は最盛期に24の炭鉱があり、人口12万人を数えた。国のエネルギー政策の転換で、90年3月の三菱南大夕張の閉山を 最後に炭鉱の灯は消えた。
 79年、市長に初当選した中田さんはまちの生き残りに果敢に挑戦した。「炭鉱をつぶしたのは国だ。だから面倒を見るのは当然」。 こう言って国の金を引き出すために霞ヶ関の役人と渡り合った。
 市長就任と同時に炭鉱遺産を活用したテーマパーク「石炭の歴史村」建設に着手したのを手始めに、宿泊施設「ファミリースク ール・ふれあい」やサイクリングターミナル「黄色いリボン」などを、立て続けに造って観光客誘致を進めた。
 ワンマンではあったが、中田さんの強烈なリーダーシップがなければ夕張はどうなっていたことか。現在の人口は最盛期の10分の 1近い1万4000人余まで激減したが、年間の観光客は約166万人(2002年度)に上り、市の経済を支えている。
(毎日新聞より抜粋)

平成16年1月16日
 「故郷・大牟田と炭鉱を愛し続けた人」−元参議院副議長阿具根登氏死去
 16日、大牟田市の三池炭鉱労働組合出身の元参院副議長・元日本社会党副委員長、阿具根(あぐね)登さんが東京の病院で肺炎 により亡くなった。享年91歳。
 阿具根さんは昭和24年3月〜昭和28年10月まで三池労組の組合長を務めた。1947年大牟田市議に初当選。参院議員となった1953年 からは「石炭六法」「じん肺法」「CO特措法」の制定に尽力。1960年の三池争議時は、争議終結の仲裁役を務めた。政界引退後も 東京在住だったが、「『大牟田の人間として死にたい』というのが口癖だった」という。 (西日本新聞参照)

平成17年4月11日
 苦闘59年 組合旗と共に去りぬ 三池炭鉱労組が解散
 戦後最大の労働争議「三池争議」を闘った福岡県大牟田市の三池炭鉱労働組合(芳川勝組合長・14人)が10日、解散した。戦後 労働史にその名を刻んだ三池労組は、平成9年の三井三池炭鉱閉山後も存続してきたが、組合員の高齢化には勝てず、59年の歴史に 幕を下ろした。一時代を画した炭鉱労組は、国内からすべて姿を消した。
 同市で開かれた三池炭鉱退職者の会との合同解散大会には約150人が出席。ピーク時約25000人の規模を誇った組織の最後の組合長 となった芳川氏は、「劣悪な職場環境の中で改善を求め歯を食いしばり頑張った」と振り返り、「新たな人生を切り開いていくこと を誓います」と解散宣言。
 先に解散したかつての上部団体、日本炭鉱労働組合の千葉前委員長は「三池労組は日本労働運動史の中で不滅に輝き続けると確信 している」と述べた。出席者は炭鉱で命を落とした仲間に黙祷を捧げ、組合歌「炭掘る仲間」を合唱。「ガンバロウ」三唱で解散を 惜しみ、労組の象徴だった組合旗を焼く「返魂式」で終止符を打った。
 昭和21年に結成された三池労組は、三池争議や三川鉱炭塵爆発による一酸化炭素中毒患者への補償を求めたCO闘争で中心的役割 を果たした。閉山後も、組合員の再就職やCO患者支援、足跡を伝える資料保存活動などに取り組んでいた。
(西日本新聞より)

 弱者切り捨てぬ社会を
 闘い続けることー。それが、10日解散した三池炭鉱労働組合の歴史だった。
 2年前、福岡県大牟田市で労組の取材を始めた当初、集会のたびごとに会社や国を指弾する労組に違和感を覚えた。「なぜ、まだ 続けるのだろうか」と。
 彼ら自身、国策や資本と闘う中で、労働者の「限界」は感じていたのかもしれない。それでも「闘わずして負ければ、労働者には 次は何も残らない」と三池労組最後の組合長芳川勝さんはいう。沈黙すれば弱者切り捨てがまかり通る。その危機感を常に背負った 三池労組の闘いの歴史。私の違和感は解けた。解散の日の朝、芳川さんから一編の詩を見せられた。読み人知らずの詩は旗に書かれ ていた。

 歴史が正しく書かれるやがてくる日に / 私たちは正しい道を進んだといわれよう / 私たちは美しく生きたといわれよう / 私たち の肩は労働でよじれ / 指は貧乏で節くれたっていたが / そのまなざしはまっすぐで美しかったといわれよう / まっすぐに / 美しい 未来をゆるぎなく / みつめていたといわれよう / はたらくもののその未来のために / 正しく生きたといわれよう / 日本のはたらく 者が怒りにもえ / たくさんの血が / 三池に流されたといわれよう

 「総資本」と「総労働」の対立が先鋭化した1960年。三池争議の最終局面となった三川鉱ホッパー前で、一人の活動家がつくった 「やがてくる日に」と題する詩だ。争議の敗北を予感した労働者が、未来にこそ運動の広がりを託したのではないか。
 労働者の魂の叫びに似たその詩は、労組組織率が二割を切り、リストラが日常化する競争至上の今を鋭く突く。
 三川鉱炭じん爆発事故で被災した一酸化炭素(CO)中毒患者の多くが入院する大牟田労災病院は、国の再編計画で本年度中の廃止 に直面する。事故や病気で記憶などに障害が出る「高次脳機能障害」の治療拠点として存続できないかと、患者・家族たちは願う。労 組が解散しても、まだ未解決の問題が残っている。
 国や企業に「弱者切り捨て」の風潮がまん延する。弱い者が無視されない社会をどう構築するか。闘い続けた三池労組の理念は、 これからも生かされると信じたい。
(西日本新聞大牟田支局 稲葉)

平成17年7月15日
 北海道石炭じん肺訴訟 提訴から19年 国の敗訴確定
 北海道の炭鉱で働き、じん肺になった患者79人が国に損害賠償を求めた「北海道石炭じん肺訴訟」で、昨年12月札幌高裁での 控訴審で和解に応じなかった9人について、「国が鉱山保安法に基づく省令改正権限を直ちに行使しなかったのは合理性を欠き 違法」と判断、国に賠償を命じていたが、国側が「9人については賠償請求権が消滅する除斥期間が経過していた」として上訴 していたもの。これに対し最高裁第一小法廷は実質的な審理に入らず「適法な上告理由に当たらない」と退け、国の敗訴が確定 した。

平成18年3月21日
 三井松島じん肺 和解
 長崎県の池島炭鉱(2001年閉山)や大島炭鉱(1970年閉山)で働き、じん肺になったとして、元従業員や遺族が三井に損害賠償 を求めていた訴訟は20日、原告側と三井側の和解が成立、「三井松島じん肺問題終結共同宣言」に調印した。

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