フ・ナロード

(2010年10月9日 聞き取り)  

 「1960年、私は三井三池ホッパー前へ医療班として従事しました」。昨年5月、京都にて開催した「三池労働争議50年展」 に寄せられた、そんな声を頼りに、10月9日、京都市下京区に所在する京都南病院にその人を訪ねた。

 Aさん。現在高齢ながらも、同総合病院で内科医として勤務する。京都南病院は1953(昭和28)年創立。 民医連に加盟していたが、1965(昭和40)年頃脱退。現在地での開設は1966(昭和41)年である。分院のひとつとして「せんぼん診療所」があり、 かつては「全日自労」の健康管理のために、集会所の一角に同診療所はあった。無産者診療所として、弱者のための診療に力を注いだ。Aさんは 1953年、国立京都大学医学部を卒業すると、大阪市西淀川区に今もある民医連の診療所に入った。学生時代は奨学金の貸与やアルバイトに頼った 苦学生だったと言い、無産者診療に力を注いだゆえんの一つであろうか。しかし、Aさんは言う。「すべては戦争体験が原点だった」。

 その思いは後半に記すとして、1960(昭和35)年7月17日、福岡県大牟田市において開催された「三池を守る大集会」を目指して、Aさんは三井 三池鉱業所三川鉱へ医療班として向かった。大阪総評からの派遣であったが、大阪の民医連所属の医師として、ナース2名、事務担当の1名が一グル ープとなって、ホッパー前の闘いに参加した。当時よく言われていた、「三池に行けば命はない」というような恐怖心はなかったと言い、むしろ、 機会があれば三池闘争へ参加してみたいと考えていた。このとき3月に生れたばかりの子供がいて、それが気がかりと言えば気がかりであったが、 妻は「気をつけて行ってらっしゃい」と気持ちよく送り出してくれた。Aさんが33歳のときだった。

 夜行列車で国鉄大牟田駅に着くと、三池労組の事務所に顔を出し、同所の案内を得て、三川鉱ホッパー前へ向かった。同地では、以前から数次に わたり派遣された医療班の作ったテントばりの現地診療所があった。宿泊所としては一軒の炭鉱住宅を用意された。「そこは空き家だったのだろう か。とにかく、炭鉱住宅の中に空き家が何軒かあった記憶がある。その中の、ある空き家の壁には、黒色ペンキで『犬、犬、犬』とあちこちに落書 きがされてあった。その理由を尋ねると、三池労組が分裂して第二組合へ走って行った元組合員の家だと言い、三池闘争の現実を見る思いだった」 とAさんは語る。

 ホッパー前の現地診療所では滞在期間中、幸い重大な病気やケガ人も出ず、Aさんら医療班は安堵した。しかし、ケガ人と言えばひとつ忘れられ ない事件があった。大牟田市内での集会のあと、長い労働者のデモの列が進み、その最後尾に全学連の学生たちがいた。労働者が流れ解散をしてい るとき、学生たちはうず巻デモを開始した。道路いっぱいにうず巻デモをしていたこれら学生たちに対し、警官たちは警棒でこれに答えた。そして 学生100人位が大牟田警察署に連行された。全学連と言っても、学生たちは労働者たちに比べると体格では見劣りがしていた。したがって機動隊に 狙い撃ちされたのである。だが、全学連の組織としては、当時のそれは最も強大であった頃である(それから間もなく、新左翼として分裂を繰り返 し弱くなっていった)。多数の学生たちが連行される様子を目撃していたAさんは大牟田警察署へ乗り込んだ。「私は医者だ。ケガした学生たちを 診る義務がある」。警察幹部とかけあって、学生たちのケガの程度を診て回った。幸い皆軽傷程度であったので、Aさんは「ホッとした」。

 Aさんが三池の現地へ滞在したのは7月17日の前後4、5日のこと。その間、三池はどのような状況であったか。当時の朝日新聞記事からみてみ たい。「昭和35年7月16日、三池争議いよいよ緊迫。警察の介入やむなし。警察一万人を動員。オルグも続々集結」。「昭和35年7月17日、 総評九州拠点共闘会議は午後0時40分から三川鉱ホッパー前の広場に10万人の組合員やオルグを動員して『安保体制粉砕、不当弾圧反対、三井闘争 を守る大集会』を開いた。江田社会党書記長、宮本共産党書記長、主婦会、全労連、部落解放同盟など代表が集まった」。「全学連主流派は18日、 各地方学連を通じ全国の加盟校へ『三池闘争に全力を結集する学生は三池に集まれ』との指令を流し、19日から本部を三池へ移した」。

 Aさんもまた、学生運動に大きく参加していた。「私たちの世代が戦後の学生運動の創設に関わり、かつ中心になっていた」とAさんは自負する。 昭和21年秋の三高(国立第三高等学校。アメリカの占領政策で新制度となったため、三高は昭和25年3月に最後の卒業生を出し歴史を閉じた。その 校地は現在京都大学教養学部の敷地となっているが、残っている建造物は木造の正門のみである)時代に、寄宿舎の友人たち十数人と、たまたま手に 入ったドイツ語の「共産党宣言」を輪読しながら、マルクスの勉強をし合った。それを通して、過ぎし日の戦争のことをどのように理解し、どのよう に教訓を得ていくかを考えた。

 Aさんは昭和20年4月から7月までの間、大阪市此花区にあった住友金属工業伸銅所に学徒勤労動員された体験を持つ。完全三交代制の工場労働で、 軍需工場として戦闘機の翼げたを製作していた。工場の寮での主食は豆かすに麦が少し混ざった程度。だから食べ残す者が多く、多くの寮生は週末 実家に帰宅し、その分の空腹を満たした。しかし、「日本人はそれでよかったが、朝鮮半島から海を越えて徴用工として来ていた朝鮮人たちは、配給 された食事だけでは足りず、いつも空腹だった。我々が食べ残した豆かすを、ジッと横目で眺めていた。そんな時、ある日本人はソッと食器を朝鮮人 の方へ押しやって食べてもらっていた」という。また、「とにかく広い食堂だったから、全体でどれだけの朝鮮人がいたのかわからなかったが、自分 の周囲には10名ほどがいた」とも。7月24日、住友金属工業伸銅所は空襲に遭う。工場ではたくさんの死者が出た。しかし、工場の外へ避難していた Aさんら三高の学生たちには幸い死者は出なかった。空爆から10年程経って、Aさんは工場がどうなっているのか一度見に行ったことがある。その時 工場はまだ空爆されたままにしてあったのか、一面瓦礫の山になっていたという。朝鮮人労働者も含めて、空爆の被害にあった死者たちはどうなった のか。今そこはUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)というテーマ・パークとなって、戦争を知らない子供から若者までのざわめきがあふれ た場所と化している。

 昭和19年秋の三高で勉強していた時から、「間もなく自分たちは戦争で死ぬかも知れない」「天皇のために死ぬとはどういうことか」「民族とは どういうことか」「日本人の血が流れていながらアメリカ軍人として日本と戦う日系アメリカ人にとって、血と国家とはどういうことなのか」等等と、 学生の間で意見を交わすこともあった。そののち、日本の主要都市から中小の都市まで、爆撃により破壊され、それによる多くの国民の死傷と生活の 破壊があった。そういう戦争についての考えをめぐらせる中で、そのときの時代がAさんを反戦活動と労働運動へ走らせた。Aさんは語る。「私が 物事を考えるときの原点となっているのは、戦争体験からです。だから学生時代はメーデーにも参加したし、卒業後も各地の労働争議へ駆けつ けたりもした」。

 Aさんは、「三池で教えてもらった歌で、『がんばろう』はなじめなかったが、『炭掘る仲間』は今も忘れられません」と言いながら、「みんな 仲間だ 炭掘る仲間」と、三池労組の組合歌をうたいはじめた。そして、「京都大学にも、忘れられない、いい歌がありました。今の学生たちは知ら ないでしょうが。」と言いながら、「木々の緑を雲すぎて 時計の塔の赤き壁 色あせたれど 屈辱の怒りをこめて 戦いの長き歴史をきざみゆく  友よ冷たき牢に耐え 鎖をひきて突きすすむ 白き面(おもて)の美しく 光りあふるるを見よ」と歌って聴かせてくれた。タイトルは「京大反戦自 由の歌」。作者は京都大学で労働衛生学を学んでいた2年上級生の「H」だと言い、「岡山県出身で禅寺の息子だった」という。

 「前川さんは『フ・ナロード』という言葉を聞いたことがありますか。ロシア語で『人民の中へ』という意味です。それが私の信条です。医療に おいても、です」と、Aさんは最後に語った。

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