三池炭鉱の思い出

(聞き取り年月日場所:2003年4月1日 熊本県荒尾市 万田炭鉱館)




大体ですね、炭鉱では能率給で金をもろうたんですよ。例えば、竪坑ではゲージを運転する人が1人おらん といかんでしょ。それと上と下に合図する人がおらんといかん。それから坑内に空気を送る人。みんなが働きやすいようにする通気 係ですよ。そうすると今度は、人間を送るために人車を使う。人車の運転手と車掌がいなきゃいかん。それから今度は車道を修理す る保線係。炭車のサオどり。機械工。電気を扱う人。それと堀り進んで行ったらどのように掘って行ったかを測量する人。だから、 もう、炭鉱では採炭さんが炭を掘るというだけではないんですよ。だからですね、万田鉱でも一番多い時は3000人位いたと思う んですよ。そしたらそれに家族がおるでしょ。そん頃というと大体4,5人位だろうか、家族構成というのは。そうすると、それら 家族を入れると1万人を越すからですね。この付近の社宅じゃ足りずに、大谷社宅だとか、野添社宅だとかですね、そういう風に社 宅を造らにゃいかん。それでどんどん社宅が増える。そうすると上には上で労務係というのがおる。だからもう炭鉱というのはもの すごく人間がおらにゃいかん。
 ところが昭和30年頃から外炭が入るようになった。まず、オーストラリアから石炭を入れる。日本は電力事情というのがですね、 水力もあるけど、火力発電所には石炭がいる。オーストラリアの石炭というとブルで地表をガーとやるだけだから安い。そして、昭 和30年頃から石油も入り、炭鉱も外炭に負けんようにお互い競争していかんと会社が成り立ってゆかん。どこの会社もおそらく合 理化した。
 それが三池では、「向坂」というのが各社宅に教育などをして、組合本部にも来てですよ、その頃は私も大谷社宅にいて、向坂教 室がある時は行かんと組合からにらまれるから(笑)、聞きに行きよったですよ。あの人たちが、学者の人たちが説明して聞かせる とですよ。こういう風に安い石炭がどんどん入るから会社が合理化するでしょ、しかし、ああた達は会社に負けたらいけませんよっ て、合理化に反対していかなければ、どんどん賃金は下がりますよって。だからですね、それは反対する金を逆にいい条件でいい場 所に仕事を替えてくれと言えば会社も文句言わんでも済んだ。その頃私は大谷社宅におって、そして昭和33年に現場係員になって、 争議の頃には一番にらまれた。一般の鉱員から職制側だと嫌われたですよ。でもね、どっち側についたとしても、みんなにけがをさ せてはいかんし、能率はあげないかん。結局は両方からキュッキュッ言われてね。それでも私は発破係として常に研究していたから、 現場ではどう言われようと絶対に譲らんかったから、「なんか若かモンが。わしら古いモンのことが聞けんのか」って言われたりし て、けんかにもなったりした。非常に神経を使ったですよ。
 まあ、話を元に戻しますと、そうやって人員の運搬、人が坑内に下がって現場に着くまで、片道1時間半、往復3時間でしょ。休 憩時間を入れれば4時間。坑内労働は8時間と決められているから、4時間ぐらいしか実際に働けない。もう合理化せんと、外国か らの輸入炭と競争してゆけん訳ですよ。その頃から機械化して合理化していったが、それでも外炭には勝てず、どんどん、どんどん 合理化していった訳ですが、昭和38年に三川坑の斜坑で炭じん爆発が起き、それと、合理化闘争で使ったたくさんの金で会社も傾 いて、政府からの補助金も平成13年まであったが赤字が続くということで、平成9年の3月にやめることになって電源を切って坑 道を水没させた訳です。

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