三池の記憶ー藤田さんからの聞き取り

(2009年9月21日 聞き取り)  

藤田さん  藤田さん、昭和6年生まれ。昭和25年、三井三池鉱業所三川鉱に入社。19歳のときだった。

 私はちょうど一番方(早出)で、風呂から上がってですね、裸でロッカーまでの通路を歩いていた時、 衝撃音というか、ジェット機の「バーン」というような音が聞こえてきました。しかし、そういう音はこれまでも何回かあったから ですね、なんかあったのかなぐらいしか思わず、ロッカーで着替えて、職場の人が定年退職になるから、職場の分会長と二人で、 記念品バ買いにですね、大牟田市役所前にあった石炭の人形を作る店へ行きました。そのとき街が異常な雰囲気で、何か三川坑が 大変、いやたいしたことないバイ、というような話を二人でしていました。そういえば、私が着替えて職場のロッカーから出たら ですね、三川鉱の第一斜坑がですね、爆風で吹っ飛んで、チョロチョロ火災を起こしよったんですよ。それで消火器持って、係の 人が走って行きよるのを見て、坑口には何人か倒れているのがわかりました。しかし私の所から100メートルほど離れておったから、 まあ、たいしたことないかなあと思うて、買物に出て行ったですよ。たまたま、私の父が胃がんで手術して、大牟田の市民病院に 入院しておったから、買物からの帰りに寄って、そしたら父が「お前、大丈夫やったか」と。病院にはいろんな情報が入ってきよる。 それで一応家に帰って、そしたらもう社宅はそれ以上に異常で、三川鉱は大変なことになっていると言って大騒ぎでした。夜勤の 人は家で寝ているわけですよね。その間に爆発して、夜勤の人が動員されて救助に行きました。会社には正式な保安救助隊という のがあるわけですよ。しかし、動員がかなり遅れているわけですよ、召集が。弟の嫁のお父さんは、この爆発で死んだわけですよ。 遺体は上がってきたけど、もう400名以上一緒に死んでいるわけですから、火葬場が開かんわけですよ。熊本、福岡、佐賀、九州一円 の火葬場で順番待ち。弟の嫁のお父さんも葬式は三日目だったかな。西高さんの火葬は同じ地域だったからですね、最後ぐらいだった かですね、福岡に行ったですよ、火葬は。その前に私の家内の姉むこ・塩塚達男さん(当時37歳)も同じ三川鉱にいとらしたわけです よ。で、その人は常勤ですから、朝7時から仕事に就いた。それでどうやろかと、担当の係長に聞いたら、「もうだめだ」と、「死体 で昇降した」ということを確認したからですね、ちょうど三井鉱山の体育館というのがあったんですよ、そこに全部遺体を安置して、 家内と二人で待っていたけど、遺体がわからんとですよ。お棺に名前を書いて入れてあるわけですが、なんぼ見てもないわけですよ。 そのうちフタば開けて見よったほうがよかよということで、見よったら、私が何時間もおったすぐ横の隣に、違う名前で、探していた お棺があったわけですよ。それから会社の車で大和町、現在の柳川市まで行ってですね、葬式を済ませて、あくる日帰って、今度は 弟の嫁さんのお父さんの葬式が福岡であって、三晩ぐらい寝んかったですね。同じ社宅で第二組合、職員も含めて20人ぐらい死んど ったやろかね。

 それから4年後の昭和42年9月28日に、同じ三川鉱で火災事故が起きたわけですよ。その日は夜勤で、仕事が終わって、定刻で昇降 の準備をしよったですよ。人車が早目に迎えに来るわけですよね。そしたら先に上がっていた人が「火災が発生しとる」という連絡 をしてきたわけ。ああそうかと言うわけで急いで上がろうと上がり出したら、真っ黒な煙で坑道が見えんごとなって、キャップラン プをはずして足元を照らしながら、レール伝いに避難してきたわけ。炭鉱は新しい空気が入る所と、排気する所の二つがある。そう いう坑道が違う所へ避難したわけ。まあ、火災ですから、一酸化炭素というのは、発生が一瞬に出るわけでもないし、まあ避難して、 しばらくしてもうだめだということで、隣の宮浦鉱へ逃げたわけですよ。最初は何時間も待機していたのですが、ガスの濃度が濃く なってきて、中へ入ったら倒れて死ぬということで、宮浦鉱に昇降して、そしてから町を通って三川鉱へ帰ったわけです。

 だいたいですね、三池労組の炭塵爆発と、私らの火災と二つの事故の裁判は、私らが先に起こして、後から三池労組の炭塵爆発が 裁判を起こした。そして最終的には和解で解決した。爆発の和解の勧告があってですね、それで原告が二つに割れたわけですよ、判決 で終わらせるというグループと、もう一つは和解で行くというグループ。最初一人で立ち上がった松尾さんらを入れると三つ流れがあ る。それで私たち火災の方は和解しましたが、あとの爆発の方は二つに分裂したわけです。裁判派と和解派の二つにですね。最大の 分かれ道はですね、時効の問題がからんでいました。いま残った組織は二つあります。三池労組の中にも三つ。政党としても社民党と 新社会党と考え方が違うわけですね。私たちの会は80名ほどいますかね。「大災害被災者の会」と言って、三池労組系です。行く行く は高次脳障害者のセンターにしようという考えでいます。現在の生存患者は全部で約150名となりました。当事者が亡くなって行くと、 会を脱退していく子供世代の家族が多くなり、それが残念でなりません。これまで共に闘ってきた仲間だと思っていただけに残念です。

BACK