三池オルグの思い出

(2010年8月21日 聞き取り)  

 「京都からオルグとして三池のホッパーへ行く途中の大牟田駅前で、ベレー帽をかぶった3人程の男たちに 取り囲まれてこわい思いをしたこともありました」。そう語るのはHさん、昭和10年生まれ、現在75歳。京都市在住。年齢より若く 見える。

 Hさんは工業高校卒業後の昭和28年4月、日本専売公社に入社。25歳の時、全専売労組京都支部の執行委員 に選出された。その執行委員1年生の時の昭和35年5月、同副支部長以下4名が全専売労組本部からの指令でオルグとして三池に派遣され ることになった。組合員1600名の内、延べ50名程が三池に派遣されたと言い、Hさんらはその第1陣だった。三池に派遣される前、 三池闘争現地の状況説明を受けた。そのとき、我々の中で「三池へは作業着で行くべきか、背広で行くべきか」と、ちょっとした議論が あった。結果、いくら炭鉱だからと言って人様の所へ行くのだから作業着で行くのは相手に失礼ではないか、敬意を払うべきだという ことになって、作業着は鞄に詰めて、5月2日背広を引っ掛けて夜行列車に乗った。たしか京都駅始発の急行「げんかい」だった。博多 まで約10時間。眠るときは通路で横になった。そして博多の天神から西鉄電車に乗り換えて大牟田まで向かった。

 大牟田に近づいても、不思議と現地に対する緊張感はあまり感じなかった。しかし、大牟田駅に到着し、その駅前広場に降り立ったとき、 異様な雰囲気を感じた。あちらこちらにたむろするいくつかの集まりが目についた。いかにも暴力団、あるいは右翼といった風の男たちの 姿がそこにあった。その内の一グループ、ベレー帽をかぶった3人程の男たちが近づいてきた。そして、無言で我々の肩にぶつかってきて、 そのまま無言でまた立ち去って行った。「正直その時怖さを感じました」という。それが彼らの「お前ら、何しに来たとや。ただで済むと 思うなよ」という示威行動であったのだろう。後で聞いた話では、ベレー帽姿は第二組合青年行動隊のトレードマークだということだった。 「私はかぶっていたベレー帽をそれからはかぶらないようにしました」。専売公社大牟田事務所に立ち寄り、事前に頼んでおいたヘルメット を受け取って三川鉱ホッパーへ向かった。三池への必需品の中に「ヘルメット」の項目があったからだ。

 「オルグとは、大衆を組織化し労働運動を手助けするという意味もあろうが、我々にはそんなおこがましい気持は毛頭なく、一兵隊として むかった」とHさんは話す。現地へ行ってまず感じたことは、三池労組員の統率力の凄さだった。そして現地の指示に従い座り込みに徹した。 その日の夜はホッパー前の鉄道レールを枕にして眠った。現地へ派遣された頃は、三川鉱立入禁止の執行命令が出る前で「まださほどの混乱 が無かった時期」だったことから、2日目からは「何と言う社宅だったかは知らなかった」が、三川鉱そばの河川から上流約4キロの所にある 炭鉱住宅に4人が民泊した。その家には小学生ぐらいの子供がいた。邪魔をしたらいけないと親から言われていたのか、我々の部屋をちょっと のぞくと別の部屋へ行ってしまった。清潔な布団の上で3日ぶりにぐっすりと眠ることが出来た。

 5月5日、社宅の人たちに見送られて無事帰路についた。博多では夜行列車の時間までに充分余裕があったので、その辺をぶらぶらして時間 つぶしをした。

 Hさんのもう一つの思い出に、昭和38年頃、社会党員協議会に招かれてきた向坂逸郎教授の講演を聴いたことがある。「一般的に大学教授 というものは話をむずかしく理論だけで語る人が多いが、向坂さんはやはり三池の実体験に沿ってわかりやすくお話をしてくれる人だ」という 印象を強く持った。Hさんは向坂逸郎の著書を何冊か持っているといい、その中での言葉、思想が今の自分の糧になっていると語る。

 Hさんは1989年11月、54歳のとき京都支部の労組委員長を退き、1994年3月、現・日本たばこ産業株式会社を退職した。「いま労働組合は 混迷の時だが、年は取っても今も当時の闘う気持ちを持って毎日を過ごしています」と言う。

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