オルグとして三池に学んだこと

(2010年7月11日 聞き取り)  

 稲浦さん、大正14年三重県伊賀上野市生まれ。現在は大阪府内にお住まいである。気象庁職員だった。 旧制中学を卒業後の昭和18年、千葉県柏市にあった中央気象台付属気象技術官養成所(現・気象大学校)へ入校。志望理由は、 学びながら給与がもらえるからということだった。当時、食費を差し引いた手取りで3円(現在の3万円位)がもらえた。本来養成所 は4年制であったが、戦時中であったため2年半で卒業。気象に関する仕事は軍事的にも重要な位置付けであった。したがって徴兵 延期という特典もあった。旧制中学時代の友には戦争で亡くなった者もいたが、「私はそのおかげで生き長らえた」。養成所を卒業 したときには戦争は終わっていた。卒業すると大阪管区気象台に勤務し、彦根気象台等を経て、最後は大阪管区気象台の天気相談所 の所長として定年を迎えた。

 職場では正義感からよく意見を述べていたせいか、それが目について「名前だけでもよいからと言われて たまたま」全気象労働組合(略称・全気象)の大阪分会長に選ばれ、三池争議に仲裁に入った中労委が「白紙委任」を迫った頃の 昭和35年7月20日から同月23日までの4日間オルグとして三池闘争に参加した。35歳の時だった。しかし、「本当は三池に行きたく なかった」。「行けば命はない」と聞かされていたからだ。だが、「分会長が行かなくて誰が行くのか」と説得されて同僚3人と共に 大阪駅から夜行列車、しかも鈍行で三池に向かった。大牟田駅に着いたときにはもう夜になっていた。「お前らどこへ行くのか。帰れ」 と見知らぬ男たちに呼び止められたりもしたが、別の者に三川鉱へ案内され、取りあえずその夜は地べたで眠った。暗かったのでその時 はわからなかったが、朝方明るくなって見回すとその場所はホッパー前であり、周りにもたくさんの男たちが横になっていた。朝食と して主婦会の人たちからにぎりめし1個をもらった。正直それだけでは足りずお腹が空いたが我慢した。ホッパー前ではよく「がんばろ う」の労働歌を皆で練習した。ここへ来て初めて知った歌だったが、心が震えるほどの感動をその時覚えた。特に全学連の若者たちは 元気よく派手に歌っていたという記憶がある。他には、話しかけはしなかったが部落解放同盟の婦人たちもいた。「明日は警官とやり 合うことになる」と聞かされ覚悟を決めたが、中労委あっせん案が受託され、内心ホッとした。

 そういうことから闘争もほぼ終わりに入り、最後は、隣接した熊本県荒尾市にあった三池炭鉱の敷島社宅で泊めてもらい、主婦会の 人たちから食事などの世話を受けた。その人たちの優しさにホッとした安堵を感じた。風呂代わりに社宅にあった防火用のプールで 素っ裸になって水浴した。着替えなど持たず着の身着のままで来たから下着などもそこで洗濯した。大阪へ戻る前には主婦たちが赤旗 に寄せ書きをしてくれた。「山下さん夫婦、前川さだめさん、西島さんの名前は今でも覚えています。会えるものなら会ってみたいです」 と稲浦さんは自分のカメラで撮った写真を眺めながら懐かしがった。

 全気象からの三池闘争参加は西部支部や福岡支部各分会の組合員総勢約9名。「最初は行きたくなかった三池だったが、実際に行って みてそれまでの私のつまらないエリート意識のようなものが吹っ飛ぶほどの、私の生き方を大きく転換させる闘争参加だった」と いう。そこから学んだことは、「まず自己を大切にし、そこから生れる己の自信から、仲間(ひと)をも大切にするということ、その ことを今の若者たちに伝えたい」と稲浦さんは最後に語った。

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