少年がみた三井三池労働争議

(2010年6月20日 聞き取り)  

 滋賀県大津市所在のJR大津駅から徒歩で約10分の所に、浄土真宗本願寺派(西本願寺)福賢寺がある。住職は 三上(旧姓・北村)さん、1944年生まれ。大牟田市立船津中学校を経て、大牟田南高校、龍谷大学文学部仏教学科を卒業。卒業後は文化時 報記者、本願寺出版社編集長をつとめ、65歳のとき定年退職された。6月20日、私は三上さんを訪ねてみた。

 三上さんの実家は、福岡県大牟田市にあった三井三池鉱業所三川鉱の正門から200メートルほどの所にあるK寺 である。昭和30年頃には同本堂で三池労組による集会があり、昭和35年の三池労働争議では派遣警官隊の宿泊所にもなった。また、昭和38年 11月に起きた三川坑大爆発事故の際には、同本堂は遺体安置所として数十人が収容された。まさしくK寺もまた、三池炭鉱の歴史を見つめ てきたのである。

 三上こと北村さん。その少年時代、彼が見るとはなく見つめてきた三池争議もまた興味深い。北村少年が船津中学3年生の時の昭和35年1月、 三井三池鉱業所においてロックアウト(事業場を閉鎖して就労を拒否すること)が行われた。その理由は「三池炭鉱における職場の混乱を建 て直し、生産体制の正常化を図るため」。これに対し三池労組は無期限ストに突入。三池炭鉱の全機能がストップした。同年3月28日には、 三井鉱山が三川鉱に第二組合員を就労させ生産再開を強行しようとして暴力団員を先頭に立てた第二組合員と第一組合員との激しい乱闘事件 が起きた。これらを家の近くの三井港倶楽部の前で遠巻きに眺めていた北村少年は、塀をよじ登って三川鉱内へ入ろうとする労働者に対し、 これを引き下ろそうとする別の労働者がいる現実を目の当たりにして、「どうして同じ働くもの同士が・・・」という素朴な疑問を抱く。そ して、「第一と第二と、どっちが正しかと?」と父親に尋ねる。そのときの父親の返答は、「どちらが正しいという訳ではなか。自分たちは 中道的存在バイ」だった。「あの時私が見た現実が、それからの私がモノを考える時の原点になっています」と三上さんは話す。「それら働 くものの痛みを思うとき、第三者の私たちが決して評論風には語ってはいけないと思っています」とも。

 そんな北村少年が大牟田南高校1年に在学中の昭和36年3月、大牟田日日新聞(現・有明新報)に投稿した記事が残っている。北村少年こと 三上さんが大切に保存していたものである。ご本人の許可を得て、その一部をここにご紹介する。タイトルは「ああ、この一年」。3月26日 付けから3回に分けて掲載されている。当時の三池争議を、部外者が、また少年が、どう見詰めていたか、とても貴重な記録であろう。

 (中略)。僕は三川鉱の近くに住み、その家はたびたび三池労組の集会所となり、またオルグの待機場ともなった。警察官が大牟田入りし て数ヵ月は警官の宿泊所ともなっていた。ちょうど昨年のきょう、つまり三川鉱乱闘事件の日、僕は外のざわめきで目をさました。5時半位。 きょう、新労組が強行就労するとは聞いていたし、また昨夜は旧労組員が三川鉱入口四つ角で棒切れをもって立っていたので何かあるのだな あと思って外に出てみるとNHKの自動車が目の前にあり、旧労組員がたくさんおられ、近所の人々も四つ角にたくさんおられた。東の方が ようやく明るくなってきたころ、港クラブ前で突然花火がドドンとなった。諏訪橋の方から新労組員がやってきた。そして乱闘。新労組の旗 が構内に入った時、一瞬ワーッと喚声が上がり、数分たったら血の吹き出ている人を肩にかけ、タンカで運んでおられる。空にはヘリコプタ ーが2、3機飛んでいた。めずらしいので見ていると、今度は黒い一団がやって来た。そして三川大通りにズラリと警察の自動車、人が並んだ。 (中略)。昔、同じ場所に、三川鉱見学に来た人の貸切バスが並んでいたのを思い出す。(中略)。大乱闘があり、救急車や自動車が三井病 院まで行ったり来たりしてヤジ馬は増し、報道関係の自動車が来て警官は増え、そして乱闘事件現場は通行止めとなり、空にはやかましくヘ リコプターが飛び、まったくこの付近はゴッタがえした。そして翌29日には四ツ山鉱で久保さん殺しまであり、争議はますますひどくなった。 僕は僕だけではなく、誰でもがこの争議はこのようにひどくなるとは思わなかっただろう。(つづく)

 (中略)。高校入試はどうにか切り抜けたが、目出たい高校入学式の日から争議のためたたき起こされた。この日は三川鉱事件の捜索とか で福銀横に警官の壁を作り、三川鉱付近を調べていたが、また乱闘事件かと思ってますます人は増え、逮捕された人がギャアギャアさわぎな がらパトカーにつみこまれているのを必死に追うカメラマン。それに、ある新聞配りの少年が三川鉱入口付近の民家に新聞を配らねばならな いので、警官の壁を抜けようとするが通れないので泣き出しそうになっているかわいそうな姿。朝から暗い気持にならなければならなかった。 その頃僕の家にも警官がやって来た。それからは勉強していても警官の人の笑い声や話し声がするので、つられてその人とトランプをしたり、 警官の中にもいろいろな人がいて、ミッキーカーチスに似ている人や宮川組合長に似ている人といろいろだ。また外に出ると三川鉱から童謡 や、いろんなマイクの声がきこえ、ピケ交代の人がピーピーワッショイとやり、花火がなれば、すぐ三川鉱の前へ飛んで行くという生活が続 いた。そして学校の成績はどんどん下がっていった。(中略)。(つづく)

 この争議中、数多くの報道人が大牟田入りした。××新聞社とか○○放送と書いた自動車がブンブン走り、ほかに警察の自動車、石炭を積 んだトラック等は、毎日何回となく見られた。大牟田駅も警官やオルグで乗り降りが増え、交通界においてはこの争議中が繁栄していた。 (中略)。7月22日のあの全学連と警官との戦いのあった日、幸か不幸か学校の前(記念グランド)がヘリコプターの発着所になっていたので、 (中略)、朝9時前から4時間終わる12時すぎまで、ずっとヘリコプターの音がたえなかった。飛び上がると「あ、NHKだな、次は朝日、今度 は毎日だ、朝日が帰ってきたぞ」という訳で、どこへ行くのか何回も上がったり下りたりしていた。毎日三池という字が新聞にのらない日は なかったが、一時のビラ合戦もひどかった。一日の最高は朝刊(西日本)だけで7枚だったと記憶しているが、それを毎日集めて箱に入れてい たが、いつかなくなってしまった。家の中にはあるのだが・・・。今度出てきたらよい思い出になるだろう。それからよく警官の人が新聞を 持ってきて、「これが私ですよ、ハハハ」とよく言われた。(中略)。最後にいらん事かも知れないが、争議中よく修学旅行中にみんなで出し 合わせてお金を大牟田駅長に渡したり、三池の皆様へと衣類等を送ってくれていたが、僕はその内の1人(女性)と文通しているが、三池で解 雇された人は、映画「筑豊のこどもたち」のような生活をしていると思っているらしい。もちろんこの映画の中でも三川鉱乱闘事件のフィルム を使っているので関係ないでもないが、残念なことだ。(おわり)

 三上さんは大学生時代、学生運動にも参加したことがある。「どちらかと言えばノンポリ的学生だった」。ノンポリとは、無党派とも言わ れ、政治問題に関心はあるものの、次第にセクト化・過激化していった学生運動を嫌い特定の党派に属することを拒否した人々のことを指して 言う。「私がものを考える原点は、少年時代、三井港倶楽部前で見た、同じ働くもの同士の争いにある」という記憶が、そうさせたのかも知れ ない。三上さんは部外者と言っても、決して三井三池炭鉱と関係がなかったわけでもない。「明治時代に炭坑が三井に払い下げされた前後から 大正期にかけて、大牟田に寺院が出来、K寺はその中の一カ寺」と言い、「高校生時代、8月のお盆の時期が来ると、忙しくて父親だけでは 門徒の各家々をまわることが出来ず、自分も僧侶となって、三井の新港町や小浜町の社宅、緑ヶ丘社宅の家々を回って経文を唱えました。1日 30軒まわることもありました」と話す。そんな中で見つめてきた「『三池』はわが原点、生き方、拠り所、そのときどきの人生の判断の基準・ 基点」だと、三上さんは言い切る。

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