三池労組青年行動隊体験談

(福岡県大牟田市在住 伊藤さんからの寄稿文より)




私は、昭和34年に鉱山学校を卒業して、三川鉱に入りました。三池争議をその頃体験しました。争議後 の苛烈な差別にも遭遇しました。その後、昭和38年10月31日付けで炭鉱を辞めました。23歳でした。
 その9日後の11月9日に、あの三川鉱大爆発が起きました。死者458名、CO中毒者800余名。一緒に働いていた同じ職場の 方々が多数死にました。死亡者名簿の中に私と同姓同名の人がいて、香典を持ってきた友人もいました。
 このように炭鉱生活は僅か4年7ヶ月でしたけれど、そこで過ごした青春時代が一番、私の精神を形作っていると思っています。 その時の、色々な思いをここに語らせてもらえたらうれしいです。
 昭和20年終戦末期、父はすでに病死し、母や長兄に手を引かれて逃げまどっていたのは私が5歳の時でした。戦後、その長兄が 鉱山学校の第1期生となったお陰で原万田社宅に住むことが出来ました。その後、ボタの埋め立てで出来た「新港社宅」という街に移 転。「新港社宅」は、本当に良かった。極貧中の極貧でしたが、みんな暖かくて、「おるかん」という声が聞こえたときにはすでに 家の中に上がっていて、茶碗の中まで覗かれているような状況でした。調味料や食品の貸し借りは、当たり前のように行われていま した。
 私の家は炭鉱マン一家でした。私も中学を卒業すると当然のように鉱山学校へ入学、そして昭和34年に鉱山学校を卒業して三川 鉱に入りました。
 しかしすぐ三池争議が始まり、三池労組員として青年行動隊に即編入され、闘争に明け暮れていました。まだ、19か20歳の時 です。争議中はいつも講堂などの宿舎に合宿し、いったん合図があると一番危険なところへ即出動です。また、うたごえ行動隊員と して、日本全国から応援に駆けつけていた「オルグ」のピケ小屋を回って、「うたごえ」で慰問していました。そして、夜は定時制 高校に通学していました。
 当時「うたごえ」の中にも、社会党系の「うたごえ」と共産党系の「うたごえ」がありました。私は18歳で社会党系の「うたご え」である「宮浦合唱団」にはいりました。男声合唱の素晴らしい合唱団でありました。そこの指導者は、原 守男さんといわれて、 NHK福岡にも所属されていた立派な方です。水曜コーラスといって、一般大衆を対象にされた合唱団を組織されていました。私は 友人と語らって、合唱団に入れてもらったほどです。荒木栄さんとの思い出もありました。「うたごえ」は、資本に立ち向かう「ひ とつの力」として、大同団結しなければならいとよく言っておりました。社会党系、共産党系が一致団結して、立ち向かっていこう ということで、合同練習をしたほどでした。
 その時の、荒木 栄さんの情熱的な姿や真摯な態度を今でも鮮明に覚えています。荒木さんの歌は今でも何曲でも覚えています。 ただ、残念ながら、宴席で歌おうものなら異端者と見られます。私はいくつになっても、何と言われようとも「荒木栄」をうたい続 けようと思っています。それは常に労働者の立場に立った歌だからです。このHPには、立場を異にする人たちがたくさんいらっしゃ ると思いますが、私の信条をただ言っただけとお思い下さい。
 それにしても、三川鉱に採用され、20歳になった頃にもらった新港社宅が今でも忘れられません。潮止め堤防の先は、有明海の 潟海です。私は坑内の仕事から帰ってくると殆ど毎日のように堤防に上がりその潟海を見つめていました。しかし、そのなつかしの 新港社宅も閉山前から廃止され、貯炭場となりました。今では、残り少なくなった貯炭の山と、決して風化することのない、黒い地 面があるだけです。この地に立つと生まれた場所ではないけれど、本当のふるさとのような気がしてならず、鳥肌が立つくらいの懐 かしさが沸きあがってきます。その地は三池海水浴場の2キロくらい手前にありました。
 19から20歳の一番多感な時、何にも無かったけれどこのような大争議に遭遇し、幸せだったなと思っています。
 その中では、三池労組員に対するいいようのない職場差別もありました。例えば
@3Kよりひとつ多い、4Kの職場、つまり「危険」「汚い」「きつい」「苦しい」職場への配転。
 特に「苦しい」は、心理的なものでした。例えば、鉱山学校出の若者には、「お前がどんなにまじめに働いても何にもならない無 駄なことだ。」といったかと思うと、ある日、並み居る先輩たちを差し置いて、「先山」にします。「先山」とは、その部署のリー ダーで、当然仕事の歩合も良くなります。しかし、言うことを聞かないと分かると即、それこそ汚くて、危険な排気坑道の作業です。 まさに、アメとムチの政策でした。家族持ちの方々には、すごくこたえたようです。当然のごとく、収入は大幅に減りました。
A子供の就職では、「三池労組員」の子息であるということだけで、不採用になりました。これら政策は大成功を収め、数年後には  三池労組は壊滅的な打撃を受け、組織としての力を失っていきました。
 労働者が、職場でものをいえなくなったとき、何が起きるかを如実にあらわしたものが「三川鉱大爆発」だったと思います。なぜ なら、争議前は事故による死亡者数は、年平均で0.7人ということでしたが、争議後は年平均で19人となっていたと統計は表し ています。
 それでも私はなぜか「新労」の方々には、たいていの人達が持っていた「憎しみ」は持っていませんでした。誰でも同じだと思っ ていたからでしょう。あまり深く考えない性質で、よくバカにされますけれど、お陰さまで胃潰瘍なんかにかからずに済んでいます。  私は三池の炭住で育って本当に良かったと思っています。貧しい者同士の助け合いを身をもって体験出来、それが今も心の底に薄 れながらも消えることなく存在しています。
 いま嬉しいのは、昨年鉱山学校の同窓会があり、かつて、不幸にも敵対関係にあった人たちが一同に会し、酒を酌み交わしてにこ やかに会い集ったことです。三池を愛する人たちには、かつてのことはまさに恩讐の彼方に消えたと思っています。またそう信じて います。

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