死者ニ非ズ

(2009年2月28日 聞き取り)  

 宮脇好光さんは昭和13年、福岡県大牟田市生まれ。昭和38年11月9日に発生した三井三池鉱業所 三川鉱炭塵爆発で九死に一生を得た一人である。

 昭和28年中学を卒業すると三井三池鉱業学校へ入学した。本当は普通の高校へ進学したかった が、昭和19年に母親を、翌20年には父親を相次いで亡くしたことから、経済的なゆとりはなく、学びながら手当てが支給され た三池炭鉱の鉱山学校を選択せざるを得なかった。同校の電気科で3年間学んだのち、昭和31年に卒業、三川鉱へ配属された。 そのときはまだ炭鉱の仕事は腰掛けのつもりで、ある程度金を稼いだら学校の先生のような仕事に就くのが夢だった。
 しかし、昭和34年三池闘争が始まり、「気がついたら青年行動隊員として闘争の真っ只中にいた」。そして、昭和38年11月 9日、非情な運命が宮脇さんを襲うことになる。

 三池闘争が終わって昭和36年12月結婚した宮脇さんは三井鉱山野添社宅で新婚生活を送っていた。常一番で坑内へ下がって いた宮脇さんは仕事を終えて坑内配水管から出る水で体の汚れを洗っていた時だった。停電したので急いでキャップランプを取 って体を拭くと着替えて昇坑しようと26卸へ出た。すると坑道奥から黄色いゴミのようなものが押し寄せてきたかと思うと、 人が「ヨロケ」ながら歩いてくるのがわかった。そしてその人は目前でバッタリと倒れた。これはただ事ではない。そう直感し た宮脇さんらは退避した。その途中、天井が回るような目まいを感じ宮脇さんも倒れた。そこまでは覚えているという。それか らどれだけの時間が経ったのだろう。
 「おーい、あんたの名前はなんかー」というかすかな声が遠くから聞こえてきたような気がして目が覚めた。後から聞いた話 では、「自分は口から泡を吹いていて昏睡状態で、マウス・ツー・マウスで息を吹き込まれたり、地下足袋で顔を叩かれたりし てやっと息を吹き返したそうだ」という。宮脇さんは救助隊員2人に両脇から抱えられるようにして、宮浦鉱坑口を目指して歩 いた。
 その途中、坑道の広い場所、人車乗り場の近くだっただろうか、そこに多数の人が倒れているのがわかった。その一人ひとり の倒れている側の地べたには、チョークで○と×が記されていた。「○はまだ息をしている者、×は死んだ者だ」と教えられた。 また、人車には座ったまま、もたれて死んでいる人、うつぶせになって死んでいる人が多くいた。自分たち常一番と入れ替えに 二番方で入坑する人たちであったらしい。宮脇さんは間もなくして白い服を着た医者のような人に坑道で注射を打たれた。そし て宮浦鉱坑口から脱出した。一旦病院へ搬送されたが、負傷者は待合室のみならず廊下にまであふれかえり、病院は混乱していた。 宮脇さんはひと通りの診察を受けただけで「帰っていい」ということになり、会社が用意したタクシーで帰宅した。

 家へ帰って宮脇さんは驚いた。通夜が営まれていた。一瞬、誰が死んだのだろうと思った。するとそれは自分の通夜だった。 自分も驚いたが、それ以上に家族もまた驚き、そして喜んだ。事故の発生時間は午後3時15分。最も早く入坑した三川鉱救護隊 (56人)の入坑が午後5時28分、宮浦鉱救護隊(26人)の入坑は午後6時32分、四山鉱救護隊(41人)の入坑は午後9時30分(三 池炭鉱労働組合編「みいけ二〇年」)、宮脇さんが救助されたのは午前0時頃。しかしテレビニュースなどの死亡者名簿の中で、 宮脇さんは死んだことになっていたのだ。そのことであとから同僚から、「宮脇さん、あの世はどんなだったかね」と冗談半分 で聞かれることがあり、そんな時は「あの世はただ闇で真っ暗だったバイ」と答えたと話す。生きて働く場所が闇であるなら、 死んで行く場所もまた地底(じぞこ)と同じく闇であったという話、決して笑い話で済まされないのが炭鉱という所であったの かも知れない。

 宮脇さんは被災後、CO中毒患者として大牟田労災病院に通院すると共に、万田にあった荒尾回復訓練所で5年間リハビリを 受けた。リハビリではバレーボールなどをして「宮脇さんは元気バイ」と言われたりもしたが、その分家へ帰るとグッタリして 寝ていることが多かったという。

 そして昭和43年職場復帰。しかしまだ体が充分でなかったことから、通勤に便利な新港町社宅に住まいを変えてもらった。 だが、変わったのは住まいだけではなかった。5年間休職しているうちに職場の機械設備も変わっていてその操作に宮脇さんは 戸惑った。「宮脇さん、なんしょっとか」とよく言われた。CO中毒患者特有の、記憶力の衰えもあったのだろうと宮脇さんは 話す。その時まだ30歳の若さだった。

 炭塵爆発前には電気係だけで約120人いたが爆発で約40名が亡くなり、助かってもCO患者となった者約40名。被害を免れた 残りもその後少しずつ新労へ移って行き、最後に三池労組員は宮脇さんと与論島出身者の2人となった。が、新労へ行った者たち は、2人だけとなった三池労組員の宮脇さんらには好意的であったという。「それは職場で、会社側に安全に関することなどは 特に強く意見を述べたりしていたことが、言いたくても何も言えなかった新労の人たちの代弁者となっていたのかも知れない」と 宮脇さんは振り返る。

 「三池の闘いは何であったのか。なぜ爆発が起きたのか。」― そのことが今、正確に語り継がれていないことが残念でならな いと、宮脇さんは思いを語る。マスコミも含めて、「組合が強すぎたから会社がダメになった」と一般的に言われてきたが、 そうではないのだと。「三池の闘い」は、自分たち働く者のいのちを守る闘いであり、人を人として扱えという人権闘争だった。 それが今はどうだろう。特に大企業の労働組合は福利厚生施設と化し、組合活動に熱中することは悪であるという風潮がまかり 通っているではないか。三池闘争から50年。体の不調を最近富に感ずるようになったこの頃だが、今こそ、記憶がまだ失せない うちに、「三池の闘い」を、そして、「なぜ爆発は起きたのか」を、もう少し詳しく伝えて行かなければならないと思うと、 宮脇さんは語る。

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