家族の軌跡 ― 戸籍が語る、ある朝鮮人坑夫の記録

(2011年6月25日 聞き取り)  

                    農業
本籍 韓国慶尚南道昌原郡鎮田面谷安里
戸主
  本 星州  出生別 長男
姓名     李 基徳
生年月日  明治四年五月六日

事由
大正九年七月廿八日午後壱時福岡縣鞍手郡西川村大字新延新目尾炭坑納屋ニ於テ死亡 戸主変更

 「この一枚の戸籍の記述からどんなことがわかると思いますか」。本年5月20日、私の新目尾(しんしゃかのお)炭坑の ホームページを見たという男性から私のもとに、そんなメールが届いた。その人は京都市在住の在日韓国人だと名乗る李さん(60歳)。「今年 還暦をむかえ自分のルーツを調べています」ということだった。大正時代に、韓国から、日本へ出稼ぎに行かざるを得なかった韓国の民が、どのよう な理由で日本の炭鉱で死ななければならなかったのか、本人ならずとも、「新目尾炭坑納屋ニ於テ死亡」という文字に、私の目が釘づけになった。便 りをくれた李さんにぜひ会ってみたい、会わなければならない。そんな思いが込み上げてきた。6月25日、私はJR京都駅で李さんと会った。

 差し出された名刺には漢字名とともに、アルファベットで名前が記載。朝鮮民主主義人民共和国では「李」はそのまま「リ」と読み、大韓民国では 「イ」と発音する、と教えてくれた。また、「韓国」と書いて、「ハングク」と発音する、とも。「ハングク」― 聞きなれない言葉ではあるが、サッ カー・ワールド・カップなどでよく注意して聴いていると、韓国側観衆が「テハンミングク(大韓民国)」と大声援している様子がうかがえられる。

 李さんは3人きょうだいの末っ子。姉と兄は日本国籍を取得したが、李さんは韓国籍に固執した。「朝鮮民族として生きていくことを選んだ」。 その理由を、「日本においても在日と呼ばれ、韓国へ行っても半日本人と呼ばれるのなら、いっそうの事、父のふるさとの朝鮮民族として生きようと決心 した」という。そしてフルサト韓国の歴史や文化を学び、言葉もある程度話せるようになった。そう思えるようになったのも、「還暦を迎えるようになっ て、ささやかながらも生活が落ち着いてきたから」で、それまでは父(1914年韓国生まれ)の生き方が、李さんにとっては嫌でイヤで堪らなかった。 色んなことがあって両親は離婚。李さんと兄は父親に引き取られ、姉は母親に引き取られた。韓国においては女児よりも男児が重要視されていたと李さん は説明する。しかし、李さんは父親に反発。「自分はああいう人間にだけはなりたくない」。高校を卒業すると家を出、一人で暮らしてきた。だから、 父親が55歳で韓国のフルサトにおいてすでに病死していることもあとから知った。

 父と別れた母(1926年韓国生まれ)もまた苦難の道を歩いてきた。
 「山奥の貧しい村」で暮らしていた母親の一家は、「母が5歳の頃の1930年頃、山口県へ渡ってきた」。密航だったという。そして同地で炭焼きや小 作農をしながら一家は暮らした。その時代、北の民は満州(現・中国)へ、南の民は日本へ移住していくことが多かったと、李さんは説明する。その 時代とは、すでに韓国併合から20年経った時代であり、日本が朝鮮への侵略行為を着々と進めていた頃だった。そんな母も2008年、姉が住む大阪府 高槻市で亡くなった。享年82歳。「生活のため再婚を繰り返すなど母は苦労の連続だったが、父や祖父に比べれば、母は長生きの方だった」。母親のお 墓はいつでもお参りできるよう、きょうだいで京都に建てた。疎遠だった父の墓は本籍地の谷安里(コガンリ)にあり、釜山(プサン)に住むいとこが お墓のお世話をしていることを聞いていたので、そのいとこの協力を得て、「父の戸籍を昌原(チャンウォン)市の鎮田面(チンジョンミョン)役場から 取り寄せた」。理由は自分たちのルーツを探るため。「その時初めて、除籍に祖父の名があって、聞いたこともない九州の炭鉱で死亡していることが書い てあったので驚いた」。「祖父のことは、もちろん会ったこともなければ、聞いたこともなかった」。「それだけにショックだった」。「自分は今年還暦 を迎え、また、日頃小さい孫に囲まれ、ささやかながらも幸せに暮らす日々なのに、時代的な背景があったにせよ、父や祖父が還暦すら迎えられず亡くな っている事実。特に祖父が異国の地で過酷な労働現場でさみしく果てなければならなかった事に思いを寄せるとき、かわいそうでならなかった」と言い、 「孫の私たちに出来ることは何もありませんが、せめて少しの間、祖父に思いを寄せ、その死の理由を探ってみたい」と、李さんは家族への思いを語った。

 祖父はどうして日本へ渡って行ったのか。炭坑の納屋とはどんな所だったのか。なぜ49歳の若さで亡くなったのか。異郷の地でさびしくはなかったの か。戸籍を見て色んな思いが李さんの頭の中をよぎった。李さんは取り寄せた戸籍の中の「本 星州」という所に注目した。「本」とは「本貫地の略 で、始祖が住んでいた土地という意」。「始祖」とは「ある家系の最初の人」。したがって、「本 星州(ソンジュ)」とは、「星州地で代々に豪族を 成してきた一族」という意があると李さんは熱く語る。

 本籍地の慶尚南道(キョンサンナムド)は朝鮮半島の南東部に位置する。現在の人口は約316万人。8市10郡5区からなる。東は東海(日本海)に、 南は対馬海峡へ至る朝鮮海峡に面す。韓国有数の穀倉地帯であり、韓国でもっとも漁業が盛んな地域の一つでもある。しかし、日本統治時代の慶尚南道は どうであったのか。1936(昭和11)年の戸口調査によると、総人口は2、214、406人、その内訳は朝鮮人 2、115、553人、内地人(日本人のこと) 96、 926人、その他 1、927人。その時代の朝鮮国旗は「日の丸」であり、国歌は「君が代」だった。この大日本帝国による朝鮮の統治は1910(明治43)年8月 22日から1945(昭和20)年8月15日までの36年間続いた。その時代の朝鮮における最後の元首は昭和天皇ヒロヒトだった。そんな時代背景の中で、昌原市 にある馬山(マサン)湾から、李さんの祖父や父・母は、生活のため朝鮮海峡を日本へ渡航せざるを得なかったのだ。2010年7月、昌原市に編入されるま での旧馬山市は、韓国民主化運動の拠点の一つでもあった。

 李基徳(イ・キドク)さんの稼動先である「新目尾炭坑」は、当初は古河鉱業(現・古河機械金属)が経営(1912年―1923年)していた。その 後経営権は古河鉱業から藤井鉱業、日満鉱業などに移りかわって行き、1961(昭和36)年に閉山した。
 李さんの心に引っ掛かる言葉が、「タコ部屋」というものだった。「炭坑納屋とはどういうものであったのか。私の祖父はいわゆる『タコ部屋』の ような所で亡くなったのではないか」と。

 小池喜孝著「北辺に斃れたタコ労働者の碑―常紋トンネル」(1977年朝日新聞社)の中の記述によると、「建設業における労資関係制度」からとし、 1890(明治23)年北炭室蘭・夕張線工事でタコ部屋は始まり、当初は囚人を拘禁・強制労働にあてた。1894(明治27)年に囚人の外役労働廃止がなされる と、その後は一般から甘い言葉で土工夫を募集しタコ労働をさせていった。1939(昭和14)年日本が戦争への道を歩んで行くと、労働力不足を補うため、 国民徴用令が公布され、当時日本の植民地となっていた朝鮮から、朝鮮人を第一回強制連行者として北炭夕張鉱業所へ入山させ、朝鮮人強制連行・労働が はじまっていった。1944(昭和19)年からは中国で「労工狩り」もはじまった。そして、日本国の敗戦に伴い「1946(昭和21)年米軍政部、タコ部屋解散 を命令」。ここで注目すべきは、約60年間つづいたタコ部屋制度が、日本人自らの手によってではなく、占領軍とは言え、他国のアメリカによって廃止さ れたという点であり、覚えておかなければならない日本の汚点であろう。

 それでは、炭鉱においてはタコ部屋制度のようなものはなかったのか。
「タコ部屋」という言葉は、先の著書からも読み取れるように、北海道においての「建設業における労資関係制度」の中から生まれた北海道地方独特の 言葉であるという。したがって、九州・筑豊地方の炭坑における労資関係には「納屋制度」というものが発揮されていた。どちらにしても、タコ部屋ほど の圧制ではないにしても、「納屋制度」を利用して納屋頭(監督・世話人)と呼ばれた者が労働者に対し、たえず目を光らせ、世話もしたが、時には制裁 を加えることもあったという。

 その炭坑における「納屋」とは、どのようなものであったのか。
「大牟田市における三池炭鉱関連の社宅調査報告書」(1999年大牟田市教育委員会発行)からの内容によると、官営時代の1879(明治12)年、稲荷町に木 造・掘立柱・わら葺きの「坑夫小屋」が初めて建設されたのが、三池炭鉱における社宅のはじまりとされている。明治22年に経営権が三井に移されると、同 年4月宮浦・大浦に木造平屋建てわら葺で「坑夫小屋」2棟が新設され、その一棟の建坪94坪、畳77坪、土間15・5坪、板張り1・5坪であり、畳数150枚であっ たというその広さから考えると、坑夫をひとまとめに押し込んだだけの収容施設のようなものだったのだろうか。別棟で風呂場・便所も付設されている。同 年8月には大浦に坑夫小屋6棟と付属便所が建設され、その内4棟は24畳や35畳の大部屋、他2棟は大部屋とせず、6・5坪と5・5坪の広さであったという。その 広さから考えると、六畳二間ほどの建物であり、家族持ちの住居だったのかも知れない。「坑夫小屋」という名称も、順次戸数が増設されていく中、1902(明 治35)年からは「納屋」と称されるようになり、1913(大正2)年からは「鉱夫長屋」という名称が使われるようになった。そして1920(大正9)年からは 「社宅」という名称へさらに変化していった。なお、同社宅調査報告書の中の「社宅建設推移表」をよく見ると、その備考欄に興味深い記載があることに気が ついた。「明治31年、七浦坑夫納屋、一棟12戸建、朝鮮より出稼ぎ坑夫用」。
 これと似たような記録が、林えいだい著「強制連行・強制労働」(現代史出版会)の中で見ることができる。「『筑豊炭鉱誌』の中で、1898(明治31)年 2月現在の状況が記されている。(中略)。『朝鮮労働者(古河下山田炭鉱) 本坑に於いて、筑豊四郡に見ざるもの一あり。朝鮮の労働者、即ち是なり とす。目下の現員は29名にして、字新原に一棟の納屋を建築し、1人の本邦人を監督として同居せしむ。其の役業は、いずれもポンプ方にして、労働時間 を8時間とし、一日の賃銭45銭を支給せり。其の後の結果によれば、ほとんど本邦人に異ならず、すこぶる良好なりしを以て、更に之を増雇せんとし、 過般来、既に手続中なりと云えば、遠からずして更に幾多の朝鮮人坑夫を見るに至るべし』。(中略)。危険な坑内労働を嫌って、筑豊では坑夫募集が難航 していたので、古河鉱業はいち早く朝鮮人労働者の移入を考えた。『日本帝国統計年鑑』によると、1895(明治28)年の在日朝鮮人は、わずか12人に過ぎな かった。10年後の1905(明治38)年になると、303人という記録がある」と。すでにこの頃から、朝鮮から日本への出稼ぎがあったということである。

 李基徳さんが日本へ出稼ぎにきたのはいつ頃だったのだろうか。
 三池炭鉱が、朝鮮からの出稼ぎ坑夫用として納屋を建設した1898(明治31)年と言えば、主に朝鮮をめぐる清国(現・中国)との日清戦争(1894年―1895 年)で日本が勝利し、1897(明治30)年朝鮮が国号を大韓帝国と改めた頃であり、朝鮮はしだいに日本の強い影響下に置かれることとなっていった時代であ った。そのような時代にほんろうされた朝鮮の民が多く日本に移入せざるを得なかったとしても不思議ではない。1910(明治43)年から始まった韓国併合後、 朝鮮総督府により土地調査事業(日本統治時代の台湾、日本統治時代の朝鮮で実施された土地調査及び土地測量事業のこと。これにより、朝鮮の民の畑など 土地が巧妙に日本に収奪されていった)が行われた。戸籍の本籍欄の右下に記名されていた「農業」の二文字からもうかがえられるように、土地調査事業に より田畑を奪われた李基徳さんは生活に困窮。そんな韓国併合時代の1914(大正3)年に李さんの父親が同地で生まれたこともあって、そのわが子の誕生(四 男)から間もなく、祖父の李基徳さんは九州へ単身、出稼ぎに行かざるを得なかったのではないかと推測する。そういう社会的背景から日本へ出稼ぎに行か ざるを得なかった李基徳さんが亡くなったのは、韓国併合から10年後の1920(大正9)年2月。この時代はまだ朝鮮人強制連行(1939年―1945年)は始まって いなかった。
 李さんが一番気にかけていることは、「何が原因で祖父は49歳の若さで亡くなったのか」。「納屋ニ於テ死亡」という7文字に秘められているものは何 か。病死なのか。事故死なのか。それとも何者からか暴力を受けた果てに亡くなったのか。一番考えられることは「病死」ということかも知れないが、そう だとしても、病気の原因は何だったのか。炭鉱という慣れない肉体労働やその時代の食生活・衛生面から想像すれば、過労死、結核、じん肺などの言葉が思 い浮かぶ。

 新目尾炭坑の坑口などは、鞍手郡西川村(現・鞍手町)の永谷地区にある浄土真宗本願寺派慈光山真教寺の裏山にあったが、李基徳さんの戸籍に記載ある 「新目尾炭坑納屋」は、「西川村大字新延(にのぶ)字六反田(ろくたんだ)」という場所にあった。戦時中(昭和15年頃)の新目尾炭坑は約1000人 規模の炭鉱で、その内の約500人が強制連行されたりしてきた朝鮮人坑夫たちだった。その根拠は福岡県特高による1944(昭和19)年1月末現在の 記録によるもので、1268人の朝鮮人が日満鉱業に移入され、内854人が逃走、途中97人が捕捉され引き戻されたとある。炭鉱作家・上野英信の著書 「廃鉱譜」(1978年筑摩書房発行)の中で、真教寺について、「この寺には、炭鉱の犠牲となった数多くの労働者が葬られているが、とりわけ哀れを さそうのは、いまなお身もともわからなければ、ひきとり手もないまま放置されている朝鮮人労働者の遺骨だ。その数は、この寺だけでも32柱をかぞえる という」と書き記されてある。事実、同寺院の住職は、「近年まで、無縁仏となった朝鮮人坑夫等の遺骨を預かり供養していました」と語る。したがって、 真教寺の過去帳に「李 基徳さん」らしき名前がないか、住職に尋ねてみた。だが、「見当たらない」ということだった。「新目尾炭坑納屋」があった「西 川村大字新延」に建つ教善寺もまた同様の答えだった。各市町村の埋火葬認可書には、病死とか事故死などと死亡原因が記載してあるというので、鞍手町役 場保管の埋火葬認可書について問い合わせもしたが、「昭和46年からの認可書しか保管していない」ということだった。それでは李基徳さんの遺骨はどの ように取り扱われたのか。筑豊地方の炭坑の歴史に詳しい、ある郷土史実家の話によると、炭鉱事故で亡くなった者は公傷として会社が供養することはあっ ても、病死などは私傷として会社側が世話をするということはほとんど無かったという。よって考えられることは、李基徳さんのお墓はすでに韓国のフルサ トに建立されているということから、知らせを聞いて韓国から駆けつけてきた家族、あるいは同じ働く仲間などがフルサト韓国へ遺骨を連れて帰ったのでは なかろうかということ。葬式をとりおこなう金銭的余裕がなかった人もおれば、また、せめて葬式だけは故郷の韓国で出してあげたいと強く考える人たちも 多かったという。中小炭鉱がひしめいていた筑豊の山々などには、今もボタ石だけの名もない墓石がひっそりと草むらの中にたたずんでいる。そのようなこ とを思った場合、遺骨となりながらもせめてフルサトへ帰ることができた李基徳さんのタマシイはまだ救われていた方だったのだろうか。

 家族の軌跡 ― 自分はどこから来て、本当のところはどこにいるのか。そして、どこへ行こうとしているのか。李さんきょうだいは今年9月、自分たちの ルーツを求めて、父や祖父、そして母のフルサトへ向って海を渡る。そのとき初めて参るという父と祖父の墓前で、李さんらは何を想うのか。

 「在日」とは何か。私は思う。日本には琉球民族、そしてアイヌ民族があるように、「在日」もまた、日本の中の一民族ではなかったかと。1597年の 豊臣秀吉による朝鮮再侵略である「慶長の役」(朝鮮ではこれを「倭乱(ウェラン)と呼ぶ)で、秀吉軍は様々な職業人を日本へ連れ帰った。例えば陶磁器 をつくる職人である陶工たち。佐賀県の有田焼、鹿児島県の薩摩焼、山口県の萩焼などは、彼ら朝鮮の陶工たちが望郷の念で創っていったものである。日本 の中の「在日民族」― その歴史は古く、日本の文化は彼らから学んでいった。

 18歳で一人暮らしをしてきた李さんは、あるとき富山で在日韓国人の心優しき女性に出会った。「温かな家庭がほしい」。李さんが23歳、女性二十歳の時、 2人は結婚。「あんな父親だけにはなりたくない」と言っていた李さんも今では3人の子供と4人の孫に囲まれ、にぎやかな日々を送っておられる。ある日、 李さんに電話したとき、電話の向こうで幼な児たちのはしゃぐ声が聞こえた。「孫たちです」ということだった。それは、平凡と言えば平凡な光景ではある けれども、その平凡な生活ですら送ることができない人が多くなった今、大切にしていきたい「平凡な光景」であると思う。

 私もまた、子供2人と孫4人に囲まれた生活をしている。その一方で、なぜ自分たち一家が故郷を去らなければならなかったのか、そんな思いをずっと持 ち続けている、もう一人の自分がいる。自分は一体何者か。そう気がついたときにはすでに親はない。

 そして、フルサトとは何か。自分の場合で言うならば、生まれた熊本県荒尾市で約8年、その先の岐阜県土岐市で約3年、またその先の京都市左京区で約 9年、そして今、滋賀県彦根市に住み着いて約32年になる。しかし、フルサトとは、単にそこに住んだ時間の長さを言うのではない。これだけは、確信を 持って私は言える。私のフルサトは熊本県荒尾市緑ヶ丘。三井三池炭鉱の、炭鉱住宅があった所。私がまだ京都で高校生だったころ、ある友人が私に言った 言葉がある。「あんたのお母さんにはフルサトを感じる」と。そう、炭鉱住宅に私は母の匂いを感じている。それは決して華やかな香水などではない、石炭 のにおいである。

 私もルーツ探しのため、父のふるさと鹿児島県出水市に「戸籍謄抄本等交付申請書」を送付した・・・。
 一枚の戸籍 ― それは家族の軌跡。単なる一枚の紙切れではない。私もまた旅の者。自分はいまだにその旅の途中にいる。

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