三池炭鉱職員家族からの聞き取り

(聞き取り:2009年1月11日)  

 次のお話は、現在滋賀県大津市に住む、三井三池炭鉱社宅出身の女性(61歳)から聞き取りを行なった ものである。同人の希望により、お父さんの名を「Sさん」とした。

 Sさんは、1916(大正5)年、現在の大韓民国全羅北道北西部に位置する群山(クンサン)市で生まれた。1910(明治43)年の 韓国併合により日本は朝鮮半島を領有。国の政策により日本の寒村地等から新天地を目指して多くの日本人が朝鮮半島へ渡って行った。
 Sさんの両親もそのひとり。山口県から朝鮮半島へ渡り、群山市で鉄道員として働いた。そしてSさんが生まれた。同地で育ったSさん もまた父親の跡を継いで鉄道員となった。太平洋戦争が始まると、1941(昭和16)年頃Sさんは25歳位のとき召集されて、当時オース トラリア軍が占領していた、現在のパプアニューギニア領ニューブリテン島のラバウルへ高射砲部隊員として配属された。翌42年には 日本軍が同地を占領、9万余の日本軍が配置され東南アジア方面への一大拠点として敗戦まで日本軍が保持した。
 そして1945(昭和20)年、日本国は敗戦。捕虜となったSさんらは1年後釈放されて広島から帰国。父親の実家に住んだ。そのとき30歳 だった。帰国後も鉄道の仕事に就きたかったが、かなわず、翌年、三井三池炭鉱へ入社した。理由は、戦地から帰国途中の船上で、集めら れたSさんらは上官から、「荒廃した日本を建て直すには、その原動力となる石炭を掘り出すことが重要である。したがって炭鉱の仕事に 就いて新しい日本のために尽力してほしい。」旨を伝えられたらしい。戦時中はお国のために命を捧げ、戦争が終わるとまたお国のために と言われ、炭鉱という危険な仕事に身を置くことになったのである。また、帰国後の山口に、すでに三池炭鉱で働き新港町社宅で暮らして いた知人から、「こちらに来て一緒に働かないか。住む家もあるし米もある。」というような手紙をもらったこともあって、三池炭鉱で 働くことをSさんは決心した。
 三池炭鉱へ入社したSさんは最初新港町社宅に住んだ。そして間もなく結婚。荒尾市にあった緑ヶ丘社宅の若葉町へ移り住んだ。そこで 女児二人が生まれた。今回お話をしてくれた娘さんはその長女。
 Sさんは三川鉱で採炭に従事し、三池労組に所属した。しかし、反骨精神が旺盛だったSさんは、「組合からの一方的な指示命令系統に 疑問」を感じながら暮らした。それは、「軍隊を思い出させるような生活はもう懲り懲りだという拒絶反応が父には強くあったのかも知れ ない」と娘さんは語る。そんな中、次のようなことがあったという。当時、炭鉱労働者の子弟で一杯だった荒尾市立緑ヶ丘小学校は、校区 を分離して、新たに別の場所に中央小学校を建設することとなった。その話が持ち上がったとき、「同じ炭鉱社宅の子供を別々の学校へ 通わすことはおかしい」との申し出が教育委員会に三池労組からあったが、Sさんは、「子供はゆったりとした環境の中でのびのびと 学ばせることが大事」と主張。組合の方針に反してわが子を中央小学校が完成するまでの仮校舎に入学させた。緑ヶ丘小学校は炭鉱社宅の 児童が多かったが、中央小学校は逆に炭鉱外の地元民の児童が多かった。そういうこともあってか、「私は社宅であったクリスマス会には 呼ばれたことがなかった。今思うと、組合の方針に何かと逆らっていた父に対する大人たちからの締め出しがあったのかも知れない」と、 娘さんは笑いながら言う。
 そんなSさんは職員を目指して会社の試験を毎年受験したが、3回失敗。そのときある人から、「試験の成績だけではだめたい。つけ 届けをせんば」と言われたことがあったという。事実、飼っていたニワトリの足をワザと折って、「使い物にならなくなったちんば鶏です が食べてください」と上司の住まいに届けたり、「不慣れな奥さんには大変でしょう」と言って薪割りや庭の手入れを手伝ったりする者も いたようである。しかし、潔癖症だったSさんは「わしはそんなことまではしたくない」と言って拒否。4度目にやっと職員試験に合格し た。1957(昭和32)年頃のことだった。
 職員となったSさん一家は翌年、大牟田市天領町二丁目にあった三井鉱山川尻社宅へ引っ越した。娘さんが小学校4年生になる時だった。 娘さんは上屋敷町二丁目にある三川小学校へ通い、中学生になると船津中学校へ通った。最後は小浜町社宅へまた移り住んだ。
 1959(昭和34)年12月に始まった三池争議により、翌60年3月、三池労組は分裂、第二組合として「三池炭鉱新労働組合」が発足。 これを機会にSさんも新労組へ移り、仕事も採炭から保安課に移った。Sさんの保安の専門は落盤に関することだった。職員になったから といってすぐには職員組合への加入は認められなかった。
 Sさんの長女が中学1,2年生になった頃の話。マルクスの「資本論」などに興味を持ち始めた娘さんはある時、「お父さんはどうして 第二組合へ行ったの?」と議論を求めたことがあったという。その時、「うるさい。生意気いうな!」と父親に即張り倒されたと娘さんは 笑う。「私たち家族のことを案じてそういう道を選んだだろうに、あのとき私も生意気だったから、父を怒らしたのだろうね」と娘さんは 当時を振り返った。
 三池争議後の1963(昭和38)年11月9日、三川鉱において、458名の死者と822名にのぼるCO中毒患者を出す炭塵大爆発が起きた。 そのとき、Sさんも坑内にいた。保安係として三川鉱坑口から入坑し、坑道の点検をしながら四山鉱方面へ歩いていた時だった。突然 停電したので、「落盤が起きたのかなあ」と考えながらキャップランプのあかりだけを頼りに四山鉱坑口から外へ出た。そのとき、 三川鉱坑内で炭塵爆発が起きたことを知らされた。そしてSさんも救援隊のメンバーとなって四山鉱坑口から再度入坑した。 当時の朝日新聞によると、「坑内には爆発当時1220余人がおり、うち400人が脱出、残り350人が安否不明」とあった。さらに11月17日付 けの同新聞は「炭じん掃除を怠る。鉱山保安局長が指摘。炭じんを飛散させないための散水用シャワーは、第一斜坑面のものがさびていて 使用していないことがわかった。」と報じた。
 同災害発生から1年後の64年9月、三池労組側の遺族6人が三井鉱山会社幹部4名を「未必の故意」による殺人罪と鉱山保安法違反の罪で 告訴。また、これとは別に、福岡鉱山保安監督局は鉱山保安法違反容疑で、大牟田警察署は過失致死傷違反容疑で、事件を検察庁へ送致 した。しかし、66年8月12日、「炭じん爆発の原因に決め手なし」として、責任者ら22人全員が不起訴となる。同裁判の争点は、「坑道内 に爆発限界量の炭じんが集積していたか否か」だった。当初、荒木教授らによる政府調査団報告書は炭じんの多量の集積を問題とし、 会社の保安責任は明らかであったが、三井鉱山は独自に九州大学山田教授らを雇い入れ再調査を依頼、「風化砂岩説」が生まれた。また、 「坑道内の炭じんのたい積は爆発限界量に達成していなかった」という調査結果を出した。その上、何者かがダイナマイトを故意に用いた 爆発説まで言い出す有様だった。さすがにそれは取り消されたが、これらに基づいて、福岡地検は「証拠不十分」として三井鉱山関係者を 不起訴処分としたのである。(1999年3月30日三池炭鉱労働組合発行「みいけ炭鉱労働組合史」参照)
 裁判中は、三井鉱山はわが方に有利な資料収集にやっきになっていた。保安係員を集め、「お前ら何やってんだ。会社がピンチだという のに何にも役に立たないじゃないか」と叱責した。そんな中、几帳面な性格だったSさんが、「爆発前に炭塵がどれだけ積もっていたか」 などを個人的に記録したノートを持っていることを会社が知った。会社はその記録ノートを裁判所へ参考資料として提出。それに基づいて Sさんは裁判で証言しなければならない羽目になった。その時の記録ノートや証言の内容は定かではないが、そのことでSさんは三井鉱山 から表彰された。金一封は無かったが、表彰状が1枚家に残っていると言い、その事実から察すると、会社にとってはかなり有利な証言 であったのだろう。
 しかし、「裁判の証言から帰宅した父は、こんなはずじゃなかったと何度もひとり言を繰り返し、終いにはこわい顔をして黙り込んで しまった」という。自己の記録ノートが、自分の意志とは違う方向で会社に利用されたことを悔やんでいたのかも知れない。裁判所の 傍聴席には、かつての仲間たちの顔がたくさん居並び、何とも表現しがたい、心苦しい思いであったという。
 Sさんにとって、そのことがずっと心の重荷となって、1970(昭和45)年、三井三池炭鉱を早期退職。個人的に親切にしてくれていた 上司からの紹介により大分県の日立プラントに転職した。その後、愛知県、新潟県の日立を単身転々としながら、退職後は滋賀県大津市 の長女宅に同居し暮らしたが、1987(昭和62)年、病死した。享年71歳だった。
 採炭夫から職員へ上り詰め、三池争議で分裂した三池労組から新労組へ移り、さらに三池炭鉱職員組合へ移ったSさんだったが、そんな Sさんもまた三井鉱山に翻弄された一人だったのかも知れない。「私の父だけに限らないのかも知れませんが、父の世代は、戦争、労働 争議、坑内爆発、裁判などを経て、苦労の多い人生を送ってきたのかも知れませんね」と、Sさんの娘さんが語った。
 Sさんの遺品の一つに、新聞記事を切り抜き貼り付けたスクラップブックがある。三池争議から三川鉱炭塵爆発に関することがらを語る 歴史の一冊。それはそのまま、Sさんの歴史でもあったのではないか。

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