三池炭鉱離職者からの手紙




 渡辺清吾さん、大正13年、熊本県生まれ。終戦後、三井三池四山鉱に勤務し、三池労組緑ケ丘社宅地域分会長もつとめていた。 その時の昭和38年11月、三川鉱炭塵大爆発があり、地域分会長として緑ヶ丘小学校の先生を被災者の学童宅へ案内した時などが つらい思い出だったという。「俺たちは単に首切り反対を叫んでいただけなのに、九州大学の向坂教授が三池闘争に政治を持ち込 んでややこしくした」と批判もする。
 三池争議終了後、三池労組員に対する会社からの差別は激しく、職場配置転換により体調を崩し、昭和41年退職。翌42年から 愛知県幸田町に移り住んだ。以下はその渡辺さんからの手紙である。


 写真集と三池闘争の記録をコピーして送ります。
 当時と言っても、三池闘争以前から人車運転手でしたので、仕事は坑内電車の運転手でした。しかし、闘争終結により、即配置 転換され、常一番仕繰工として坑道補修の重労働。坑木担ぎやら枠張り仕事で脊椎が変形する「変形性脊椎症」になり、入院しな ければならなくなったのです。約2ヶ月して退院したが到底仕繰工の仕事は無理で、四ツ山鉱退職ということになったのです。
 そして社宅を追い出され、市営住宅の朝日ヶ丘団地に引っ越したのです。しかし、炭坑勤続21年で退職金80万円。その金を 食いつぶすこと1年半。手元に残ったのは10万円。ギリギリのところで名古屋へ引っ越したのです。
 炭坑で働いていた時の給料は坑内運搬工で満勤しても月2万円。片や、名古屋において再就職した自動車会社の下請け工場に平 常勤務で月5万円。しかも落盤の危険もなく、炭じん爆発もない青空の下で5万円の給料は本当だろうか、地下数千尺の炭坑でい つも落盤を気にしながら働いても2万円だったのに・・・。別世界に来たような、しばらくは信じられないことでした。
 毎日朝の6時半、幸田駅から汽車に乗り、笠寺駅で降りて会社まで徒歩15分。その名古屋市南区には炭坑離職者がたくさん来 ていました。大方が三池炭鉱の離職者たちでした。その中の2、3人と文通していましたが、いまではそれも途絶えがち。それぞ れに老い、70、80の年齢に達しています。
 毎朝の新聞の三面記事に目を通す時、いつも名古屋市南区のことが頭から離れません。三池で闘った仲間たちは不慣れな土地の 名古屋でどうしているかと・・・。

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