三池闘争・久保清君刺殺事件



渡辺清吾さん、大正13年熊本県生まれ。当時、三井三池四山鉱に勤務し、三池労組緑ケ丘社宅地域 分会長もつとめていたが、三池争議後の職場差別により体調を崩し昭和41年退職。翌42年から愛知県幸田町に移り住んでい る。以下はその渡辺さんの体験談による。


昭和35年春、有明の海から吹き上げる風はまだ肌寒かった。四山鉱正門での惨劇が起こったのはま だそんな季節の中だった。
 殺された久保清君は仕事現場で私と仲良しだった。ホイスト運転では勘が良く、合図のベルを鳴らさないでも所定の位置にピ シャリと炭車を止めてくれる。かなり遠い巻場から操作する巻上機だが、真に神業かと思わせるぐらい正確だった。だから、久 保君と組めば安心して切り羽作業も出来た。
 3月29日、熊本県外来地域分会(通称・熊外地域第2分会)は南門に集結してピケットを張った。社宅分会は正門を守って いた。時間は午後1時を回っていただろうか。海風を斜めに受けて、三池労組の鉢巻きをしめただけでは頬も冷え込んでくるの で皆ホッかむりをしていた。
 「みんな仲間だ 炭掘る仲間 辛いときには 手を取り合おう」
 スクラムを組んで肩を組み合い、組合歌を歌っていた。二重になったスクラムの隊列は組合歌を歌っている限り崩される隙は 微塵もなかった。
 「スト破りの車が来たぞ・・ガッチリ腕を組んで・・挑発に乗るな・・」
 「大牟田の暴力団らしいぞ・・・ハイヤー20台位続いとるぞ・・・」

 頑張ろう 突き上げる空に 働く仲間の 拳がある
 頑張ろう 突き上げる空に 勝ちどきを呼ぶ 拳がある

我々のピケットラインの目前に暴力団のハイヤーが止まった。鳥打ち帽のお兄さんとやらが車から降 りてきた。「貴様ら!殺されたいか!」。組合員の胸ぐらを掴まんばかりに恐喝してきた。ピケットラインが、岸壁にブチ当た って崩れる波のように、揺れた。

 頑張ろう 突き上げる空に 働く仲間の 拳がある
 頑張ろう 突き上げる空に 勝ちどきを呼ぶ 拳がある

 組合歌を合唱するに従って、左右に揺れるスクラムが整然と姿勢を立て直していった。
 「皆・・・車に乗れ・・・」
 先頭車で組長格の男が叫ぶと、ピケットラインを挑発していた組員達もやおら車の方へ帰って行った。短刀なのか、ピストル なのか、これ見よがしに背広上着のポケットに突っ込んだ暴力団の右手拳もあった。列を作ったハイヤーが徐々に南門ピケット ラインの前を通り抜けようとしていた頃、正門前で爆竹の音が異常を知らせた。南門に張ったピケットの組合員にも突然の不安 がよぎった。
 「伝令は来ないのか・・何があったんだ・・伝令は・・」
 「伝令は見当たらない・・連絡が取れない・・道路は暴力団の車でふさがれている・・正門に行けないんだ」
 騒然となった南門ピケ隊にどう連絡がついたのか。仲間が殺されたらしい、という声が自然と伝わってきた。・・誰だろう・ ・久保君らしいぞ・・どうして・・どうして・・。
 つい先程、南門でわれわれピケ隊を威嚇した暴力団が、正門でピケを組んで組合歌を合唱していた四山社宅分会に襲いかかっ たのだ。道路を上がってきた暴力団の車の列に押されて、正門前で横一列のピケットラインが中央辺りで押し出された。その頂 点にいた久保君が暴力団のアイクチで脇腹を刺されてしまった。隣にいた組合員でさえ久保君の負傷に気づかなかったという。 久保君が変だ・・・と気がついたときにはすでに事切れていたという。
 正門の内側にいた会社職員達は消火栓を開いて門内からピケ隊に向かって放水していたから、正門前ピケ隊は表と裏からの攻 撃に耐えてスクラムを崩さなかった。
 久保君の脇腹から噴き出した血潮も職員達が放水する水に洗われて消されていた。これは偶然だったのだろうか。会社側と暴 力団との申し合わせがあったのではないか、そんな疑念を抱かせるぐらいのグッドタイミングだった。いずれにしても、労働組 合争議に、暴力団が介入した結果の悲劇であることには間違いない。
 その日も明けて朝日新聞は「殺された久保清は暴力団の一員で、暴力団内部のいざこざによる殺人事件である」と報道した。 私はその記事を見て、直ちに朝日新聞駐在記者に抗議したが、その日の夕方、駐在記者が菓子折一箱を持ってお詫びに来ただけ だった。
 久保君を刺殺した犯人は犯行直後、派出所の前を通って四山神社の山と水源地の山の狭間に向かって逃走したが、これを逃し たのは警察と暴力団がグルになって逃走経路を教えたのではないかと当時はもっぱらの噂だった。
 「三池は私のふるさとです。三池に来ることは私の喜びです」などと言っていた当時の九州大学向坂教授は、太田薫総評議長 と一緒になって「三池の同志」と呼び合い盛んに三池闘争を励ましてくれたが、組合分裂後はトンと姿を見せなくなっていた。 社会主義革命を唱えていた向坂も三池から遠ざかっていったのだ。そんな中で三池労組は孤立して行った。
 我々の組合長だった宮川は名ばかりの組合長で、実は書記長の灰原が組合を牛耳っていた。少なくともわれわれ一般組合員の 目にはそう映った。向坂の社会主義理論に操られて灰原は「向坂教室の優等生」ともくされていたし、三池の「首切り反対」「 石炭合理化反対」の”経済闘争”を”政治闘争”にすり替えたのは、三池における向坂教室の社会主義革命指向であり、その教 え子の灰原書記長らに他ならない。純真な一労働者のストライキ権による経済闘争を政治の疑獄に引きずり込んだのである。
 久保田さんが組合長だった時代はストライキも経済闘争からはみ出ることもなかったが、宮川になってから書記長の灰原の言 うがままになっていった。
 三池争議後、親戚の結婚式で会場の熊本郵政会館で宮川と遭遇したことがあった。宮川は私に気づいていたかどうか、私も知 らぬ素振りでその場を去った。お互い何の挨拶もせず・・・。
 灰原書記長はその後、総評本部に席を得て東京に行ったらしいが、まだ生きているのか、それとも死んでしまったのか、消息 は判らない。
 それにしても、三池争議という歴史の闇に葬られた仲間たちはどんな気持ちで今を生きているのか、また、生きてきたのか。  そういう私も三池争議後身体を悪くして炭鉱を退職し愛知県に流れ着いた。言うもおこごましいが、物心ついた昭和12年か らはじまって60年の歳月は一体何だったのか。今もなお自問自答が続いている。戦争、三池争議、それらの戦いの中に生きた 人生をつくづくと振り返っている・・。


(参考)
久保清さん刺殺事件
 わが国労働運動史上に残る大争議と言われた三池争議の中の昭和35年3月29日午後4時55分ごろ、熊本県荒尾市に位置 する三井三池四山鉱正門前で、トラック、バス各1台、ハイヤー十数台に乗った大牟田市の暴力団組員ら約100人が正門付近 にかかった際、正門前でピケを張っていた三池労組員と衝突。そのピケの先頭に位置していた三池労組四山支部組合員の久保清 さん(32歳)が胸を刺され、死亡した。その他、オルグの佐賀県新屋敷炭鉱労組員(32歳)と警察官(37歳)の2人も頭 を殴られて重傷を負うなど、死者1人、重軽傷者十数人を出した。

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