忘れ得ぬ記憶〜三菱高島鉱労組書記長の死

(2006年4月23日 大阪・堺)

 人にはそれぞれに忘れ得ぬ記憶がある。

 昭和62年1月15日、三菱高島炭鉱労働組合山崎清嗣書記長が島原半島雲仙の国民宿舎にて自ら命を絶った。
 組合長の代行として閉山反対闘争を精一杯闘った一途な思いがそうさせたのか、昭和61年11月27日の閉山協定書に調印後 の翌年1月8日、妻に「ちょっと東京へ行ってくる」と言って家を出てから1週間目のことだった。

 そのご子息と今年4月23日大阪・堺で大牟田以来6年ぶりに再会した。共に映画「ひだるか」を観た後であり、自然に三池 闘争のことに話が弾んだ。その時私が「そういえば高島鉱閉山で労組書記長が自殺したことがありましたね」と口にした。 「実はあれは私の父のことです」と彼が言った。私はその時、人にはそれぞれに忘れ得ぬ記憶があるのだと、強い衝撃を覚えた。

 山崎清嗣さんは、昭和13年、長崎県長崎市高島町(旧長崎県西彼杵郡高島町)で生まれ育った。ヤマの男として三代続く 炭鉱マン一家だった。昭和32年、長崎西高校高島分校を卒業すると迷わず三菱高島鉱に入った。昭和35年の三池闘争では23歳、 高島鉱労組からオルグとして何回となくピケに参加した。

 三池炭鉱有明鉱を最後まで三池労組員として定年退職した昭和14年生まれの織田喬企さんは山崎さんとの思い出を次のとおり 語る。
 「高島炭鉱の山崎さんのこと、よく知っています。昭和55年ころ、わずか1年の付き合いでしたが、実直、勤勉、真っ直ぐな 人という印象で、他山の友人としては唯一こころに深く、無念の思いと共にわが胸に残っています。
 高島炭鉱を交流訪問したとき、私が『アラカブのこつゆ』を吸えば長生きすると語ると、山崎さんらは意外そうな顔をして、 『織田さんはアラカブのこつゆを知っとるとですか』と聞き返されたことがありました。『大牟田の有明海にはアラカブはおら んでしょ』というので、『私は天草の湯島育ちですバイ』というと、帰りの船に乗る前の昼食のとき、組合員がわざわざ釣った というアラカブをご馳走になりました。それから5,6年の後ではなかったでしょうか、山崎さんの死を知ったのは。炭労大会の折、 国会議事堂で一緒に写した写真が1枚残っています」。

 山崎さんは昭和40年結婚。採炭夫から出発した山崎さんの信望は厚く、昭和44年には組織部長として組合専従となった。 頭の回転は速く、弁も立ったという。

 一島一町一企業の高島では、「高島を閉山した端島のように無人島にするな」として、島ぐるみで閉山反対を訴えた。 昭和61年10月30日には、高島鉱労組は24時間ストライキに突入。北海道の三菱南大夕張鉱や三井三池炭鉱など炭労加盟のヤマ の仲間たちが支援に駆けつけた。しかし、国の施策によって進められていくヤマの閉山は、どれだけ皆が「反対」を叫んだと て運命はすでに決まっていた。そのことを肌で知った山崎書記長らは苦渋の思いで閉山白紙撤回闘争から条件闘争へ戦術を転換。 少しでもいい条件を勝ち取るため、山崎書記長らは何度も何度も高島と東京を行ったり来たりした。そのため疲労が重なり 体重も激減していった。

 そして、昭和61年11月27日、山崎書記長らは三菱石炭鉱業本社で閉山協定書に調印。それにより、三菱高島鉱は106年の歴史に 幕を閉じた。
 「どんなにいい条件を勝ち取りましても、100パーセントということはありません。少なくともそのことによってヤマが終わり、 組合員は解雇され、地域の人たちもこの寒空に放り出されるということでありますから、それこそ血のにじむような協定であり ました。・・・産別炭労に結集し、その中で喜びも苦しみも共にした皆さんと決別しなければならない、そういう調印でもあり ました。・・・これから先、各産業に課せられてくるであろう大きな合理化等々を踏まえた、そういう第1号の闘いとして、是非 恥ずかしくないような闘いにしていきたい、そういう願いを込めた調印でもあったように思います」。
 調印後の12月4日に開かれた炭労臨時大会で山崎さんは原稿なしのぶっつけ本番でそうスピーチした。それは参会者の大勢の心 を激しく揺り動かした。
 しかし、山崎書記長ら組合幹部が勝ち取った閉山条件は炭労幹部から「今後の他のヤマにとっても閉山条件のいい手本になる」 と高く評価されていたにもかかわらず、その時を境にして山崎さんの顔から笑いが消えていったという。
 昭和62年1月に入るとヤマから追われた離職者たち家族が高島を離れ始めた。

 正月休みに東京の大学から帰省していた長男が8日に東京へ戻る前日の夕方、山崎書記長はめずらしく組合の残務整理を 早く切り上げ事務所を出た。そして肉を買って帰宅し、自ら料理して家族5人水入らずの食卓を久しぶりに囲んだ。
 その夜、早くに床についていた山崎書記長が突然起き上がり、「明日、東京へ行ってくる」と妻に告げた。
 翌朝、長崎市内に入院中の組合長を見舞い、「もっとしっかりしてほしい」と叱咤激励した。その足で東京の三菱石炭鉱業 本社を突然訪ねた。翌9日、北海道札幌を訪ね、南大夕張鉱業所の旧友と会った。翌10日、今度は一人で知り合いのスナックに 顔を出した。
 それから4日後の1月14日夕方、長崎に戻った山崎書記長は自宅がある高島には戻らず、島原半島の雲仙にある国民宿舎「有隣荘」 に宿を求めた。翌朝、部屋で死んでいる山崎書記長を係員が発見、自殺だった。

 事件を知った高島は大騒ぎとなった。「責任を背負ってつらかったんだな」とヤマの男たちが涙をぬぐった。
 17日には約800人が参列し、花輪も30本以上並んで、「高島町はじまって以来の盛大な葬儀」がしめやかに行われた。
 そして、山崎書記長の姿が消えた1月28日、高島鉱の閉山式が行われ、2月18日には高島鉱労組の解散式が行われた。このとき、 「炭鉱労働者の不屈の精神と経験を生かし、第二の人生を頑張ってほしい。いつの日かまた会いましょう」と、労働歌「がんば ろう」が大合唱されたという。

 山崎書記長はいくつか遺書を残していた。そのうちの1通は子供たち宛てで「他人がどうこういおうともお父さんを信じてくださ い。大人になったらお父さんの気持ちがわかるだろう」と綴られていたという。

 山崎さんの長男は昭和41年生まれ。現在、ある報道機関の記者として活躍している。労働歌「がんばろう」を歌うと何故か涙が 出てくるという彼は、「時々フト、自分の仕事は虚業ではないか」と思うときがあるという。そんなとき、父のことを思い出し、 「自ら選んだ仕事だから最後までまっとうすべきだ」と考え直すという。

 高島は周囲約4km、現在456世帯763人(平成18年5月末現在)の小さな町となったが、かつては閉山までの106年間、炭鉱で栄え た島であったことを忘れてはならない。三菱の企業城下町として、最盛期には2万人を超す人々が暮らしていたのだ。

 「ふるさと高島には現在親類等がいるわけではないが、ふるさとを忘れないために3年に1度は高島へ帰るようにしている。 でも最近、高島からだけではなく、そこに住む人たちからも石炭の臭いがしなくなってきたことが残念でならない。」と長男は 語る。その言葉は私の心に重く響いた。

 人にはそれぞれに忘れ得ぬ記憶がある。またそれは同時に、忘れてはならない記憶でもある。「故郷忘じがたく候」。高島を 思い出すとき、司馬遼太郎の作品のこの言葉を思い出すと息子さんが語る。

(参考資料:長尾三郎著「鎮魂」徳間文庫)

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