あるCO患者の死が語るもの

 

故・山崎さん  「私は、大阪在住の62歳の男性、荒尾市の西原社宅に住んでいました」というメールをいただいたのが 今年6月 。
 「父は三川鉱に勤めていたので、例の炭塵爆発事故に遭遇し身体の自由を奪われたままの入院生活を退職まで続け、一度も退院 することなくこの世を去ってしまいました」というその内容に、私は強くこころを揺さぶられた。

 そのお父さんの山崎辰秀さんは、明治44年、熊本県玉名郡長洲町生まれ。昭和16年、三井三池炭鉱に入社。坑外勤務員として表 彰も受けた。しかし、昭和34年から同35年にかけて繰り広げられた三池闘争の敗北後、三池労組の組合員だった山崎さんは「クビが いやなら坑内へ下がれ」と会社に強く迫られた。そして、「クビになるよりは」と山崎さんは子供ら家族のために坑内へ下がった。

 その1年半目のことだった。昭和38年11月9日午後3時10分頃、三井三池三川鉱第一斜坑で大爆発が起きた。死者458人、CO中毒 患者約839人の犠牲者を出す大惨事だった。「父ちゃん、生きててよかったね」、当初、助かった夫たちに対する妻たちの声である。 しかし、CO中毒の恐ろしさは徐々に人格をも破壊していくところにあった。

 当日山崎さんは二番方勤務。現場に着いた途端、事故に遭遇した。気がついたら永田整形外科病院のベッドの上だった。間もなく 意識が戻り、話しかけるとニッコリ笑ったが、何故入院しているのか本人にはわからない状態だった。
 昭和39年3月、大牟田労災病院へ転院。足・腰に力が入らずふらついた。やさしかった性格もまもなく一変して、夜になると興奮 し徘徊するようになった。見舞いに来た親戚・知人に対しても、「何しに来たつか。俺をおもしろがっとるとや」などと言い、 次第に親戚・知人も遠ざかるようになって家族も孤立していくようになった。症状が一応落ち着いた後も歩行障害は残り、会社側 が言い放った組合原生病(働かないで収入をうるといったニセ病)という造語に今度は家族は悩まされ続けた。

 3男1女を抱えた母親は早朝から夜遅くまで働き、生計を保った。高校1年で退学を考えた長女も働く兄の送金で高校を卒業し、 下の弟二人も働きながら夜間大学を卒業した。
 長年の重労働と介護のため神経痛で立ち上がることが出来なくなっていた母親は自宅火災で逃げ遅れ昭和62年12月亡くなった。 62歳だった。

 三池争議は働く者およびその家族に何をもたらしたのか。三池争議の延長線上に炭塵大爆発事故があったのではないか。
 三池労組組合員1200名の指名解雇撤回を叫んで繰り広げられた労働争議も、会社側が仕掛けた組合分裂等により、三池労組の敗北 の形で終わった。その後職場復帰した三池労組員もあらゆる職場差別を受け、「クビがいやなら坑内へ下がれ」と会社に強く迫られ たりした。その坑内でも保安要員が削られるなどして、結果的に炭塵大爆発事故を引き起こすに至った。三池争議の延長線上に炭塵 大爆発事故があったと考えるゆえんである。

 昭和41年1月30日、山崎辰秀さんはCOガスのため両足にマヒが残ったまま一度も退院することなく、55歳定年を迎えた。そして、 炭塵爆発事故から30年以上も入院生活を余儀なくされた平成7年8月15日、奇しくも終戦50周年の日、何ら回復しないまま大牟田労災 病院で亡くなった。享年84歳だった。

 いまや両親がいないふるさと三池は山崎さんらにとってどういう存在なのか。単に郷愁だけでは片付けられない重い歴史を、山崎 さん一家は背負ってきた。それは、単に遠い昔の出来事として忘れ去るのではなく、ふるさと三池の歴史として記録し語り継いで いかなければならない出来事だと、私は思った。

(2006年7月16日 まえかわ)

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