三菱方城炭鉱に強制配転されたアイヌ民族

(聞き取り:1992年8月 横川輝雄さん)  

 1944年(昭和19年)8月11日、日本政府は、閣議で「樺太及釧路ニオケル炭鉱勤労者、資材等ノ急速転換 実施要綱」を決定した。
 その内、釧路炭田から強制配転されたのは日本人3140人、朝鮮人2900人であった。残酷だったのは2900人の朝鮮人であったこと を付け加えておかねばならない。彼らは、朝鮮から釧路炭田に一度目の強制連行をうけ、またこのとき二度目の強制連行をうけた のである。

 さて、3140人の日本人の内、山形田川鉱山に180人と三井・三池炭鉱に820人強制連行されたほかは、すべて筑豊炭田へ強制配転さ れた。三菱の方城炭鉱に260人、新入炭鉱に370人、飯塚炭鉱に610人、三井の田川炭鉱に600人、明治鉱業の赤池炭鉱に210人、豊国 炭鉱に90人であった。

 これらの日本人のうち、アイヌ民族だと確認された人が方城炭鉱に一人いる。お話をしてくれた方城町のSさんによれば「銅住進」 さんと言い、小倉南区のOさんによれば「訪住進」さんと言った。Oさんは釧路から強制配転者を引率してきた人であり、Sさんは 方城でそれらの人々を受け入れ寮に入れた労務助手であった。
 Oさんによれば、そのアイヌ民族出身の人は釧路炭田ではOさんの家の近くに住んでいたので知っていたといい、奥さんもまたア イヌ民族であったという。Sさんが、その人がアイヌ民族だと知った理由は、釧路炭田から強制配転された他の日本人労働者が教え てくれたからであった。

 釧路から青函連絡船を経て、北陸地方を通り、筑豊まで連れてこられ、同じ列車の中にその間じゅう乗っていた。米軍の爆撃を避 けながら、何日も何日もかかってやっと筑豊に着いたのである。自分のふとんも持参させられた。

 そのアイヌ出身の人は、1944年の9月8日か9月12日かに釧路の浦幌炭鉱から強制配転させられたのであるが、何が気にいらなかっ たのだろうか、あまり働かなかった。とうとう警察が目をつけ始め、警察に連れていかれ、一週間くらいしてやっと釈放されたので ある。同胞が少ない筑豊での生活はどんな思いであっただろうか。警察から帰ってくると、採炭は気がすすまないと労務に言って仕 繰り(坑道にワクをはめる仕事)になり、それから働きだしたのである。おとなしく目立たない人であったという。

 なお、1944年(昭和19年)、「戦時炭鉱整備要綱」により、北海道東部(釧路炭田)の炭鉱閉鎖に伴い、各地の炭鉱へ強制配転 された炭鉱労働者の配転状況は次のとおり。
  三菱方城720(内、朝鮮人430)
  三菱新入780(内、朝鮮人410)
  三菱鯰田200(内、朝鮮人200)
  三菱飯塚900(内、朝鮮人290)
  三菱上山田200(内、朝鮮人200)
  三菱勝田200(内、朝鮮人200)
  三井田川950(内、朝鮮人350)
  三井三池1290(内、朝鮮人470)
  明治赤池530(内、朝鮮人320)
  明治豊国120(内、朝鮮人30)
  山形田川180(内、朝鮮人 0)

  (参考文献)
・長沢秀 編「戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集U」
(緑蔭書房発行1992年)
・石炭統制会「樺太・釧路転換勤労者輸送計画表」

 (筆者紹介)
   横川輝雄さん。九州大学文学部卒業。元高校教諭(社会科)。定年退職までの38年間の内、24年間を筑豊の高校で働く。いひゅう もん先生だった。

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