上甲米太郎さんと「三井・三池への二重連行」のつながりは?

                                                                          横川輝雄

 以下の文を読んでいただき、上甲米太郎さんの、1944年(昭和19)から1945年(昭和20)の間の三井・ 三池炭鉱における、強制連行(それも二重連行)された朝鮮人との接触の様子を知っている方は、ぜひ、前川俊行さんに知らせて あげてください。お願いします。


 愛媛県八幡浜市生まれの上甲米太郎(じょうこう よねたろう)さん(1902年〜1987年)は、若くして朝鮮語ができ、朝鮮の 公立普通学校の教員や校長になったが、朝鮮で教員組合をつくり「革命」を説いたかどで1930年に治安維持法違反で検挙された あと、保険の外交員や新聞の地方通信部記者をしながら妻子と暮らした。朝鮮では当時からその生き様が慕われていたという。
 検挙される22日前に息子さんが生まれ、伊利一(いりいち)と名付けた。イリイッチ・レーニンからとった名前であった。保釈 になった1931年には、別の女性と結婚し、1937年に娘さんが生まれ真知子(まちこ)と名付けた。上甲さんが、その昔、理想の 女性として夢見ていた野上弥生子著の長編「真知子」による。
 なお、息子さんは数年前に亡くなったが、娘さんは、劇団「青年劇場」の中心にいるようで、青年劇場公演の「族譜」に出演 している。

 さて、娘さんが生まれた4年後、アジア太平洋戦争が始まる4ヶ月前の1941年8月、上甲さんを監視していた特高警察は、上甲 米太郎という人物が植民地朝鮮にいることの危険を感じ、要領よく立ち回って、朝鮮語が巧みな上甲さんを、募集方式連行に よる朝鮮人労働者の管理係として、釧路の三井系の太平洋炭鉱鰹t採炭鉱に送り出した。

 アジア太平洋戦争において窮地に追い込まれていった日本は、釧路で掘った石炭を本州島に海上輸送できなくなった(アメリカ 潜水艦が待ち構えていた)ので、釧路の炭鉱を閉鎖し、その人員・資材を主に福岡県の筑豊・大牟田に強制配置した。このとき 強制配置された朝鮮人労働者は2900人。彼らは、一度、釧路に強制連行され、また今度は、筑豊・大牟田に強制連行されたわけで、 "二重連行"といわれる。また、日本人労働者も3000人が強制配転された。その中にはアイヌの人もいた。その他、労務係の職員も 多数いて、監視にあたり、途中の青函連絡船も貨車航送船を使い、列車から出さず、アメリカ軍の攻撃を避けるため北陸地方を 通り、フトン、作業衣、地下足袋、スコップ、坑内帽など各自で使うものは持参させられた。

 上甲さんは、1944年に、計画では5日かかって、釧路の三井系の太平洋炭鉱鰹t採炭鉱から三井・三池炭鉱に470人の朝鮮人労働者 (その他日本人労働者820人と係員)とともに強制配転された。三井・三池炭鉱では、捕らえられた脱出朝鮮人労働者の通訳をした 際に、朝鮮語で助言を与えていたところ、会社の労務係から怪しまれたという。1945年、日本は敗戦。

 戦後は、人事係として筑豊などの労働運動で解雇された労働者を意識的に採用したことなどがひびいたのであろうか、三井・三池 炭鉱を解雇され、さらに、レッド・パージの追い打ちをうけた。それでもくじけることなく、紙芝居屋さんや日雇労働者などを しながらがんばったという。
 1962年には、森田ヤエ子作詩、荒木栄作曲という黄金コンビによる「わが母の歌」という歌が上甲さんのために作られている。 (その手書きの歌詞と楽譜が、森田ヤエ子著「この勝利 ひびけとろどけ」の本のカバーに印刷されている)

  (参考文献)
・長沢秀 編「戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集U」(緑蔭書房発行1992年)所収 石炭統制会「樺太・釧路転換 勤労者輸送計画表」
・歴教協大牟田支部編「北海道と九州」(歴教協大牟田支部、1981年)
・森田ヤエ子著「この勝利 ひびけとろどけ」(大月書店、1983年)
・「治安維持法と現代 7」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟発行、2004年)所収 上甲伊利一「治安維持法に問われた 若き在朝鮮日本人教師」
・「日本植民地研究 第16号」(日本植民地研究会編、アテネ社・2004年)所収 吉沢佳世子「在朝日本人教師・上甲米太郎の 日記と関連史料」
・「東洋文化研究 第8号」(学習院大学東洋文化研究所発行、2006年)所収 青木敦子「ある日本人の朝鮮体験―『上甲米太郎』 史料紹介―」

 (筆者紹介)
   横川輝雄さん。1963年九州大学文学部卒業。元高校教諭(社会科)。定年退職までの38年間の内、24年間を筑豊の高校で働く。
 著書に「ボタ山の見える教育」(碧天舎、2002年発行)。

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