全学連と三池闘争

(聞き取り年月日場所:2004年3月12日 福井県内某病院にて)




私は、昭和33年(1958年)に某国立大学医学部に入学し、60年安保闘争に参加しました。
 結果的として安保改定は、機動隊に守られた国会で強行採決され、改定阻止を目指した闘争は敗北したわけですが、 そのすぐあとで、全学連の一員として三井三池闘争に参加しました。
 その頃の私は何故いま三池なのか、本当の詳しいところはよくわかりませんでしたが、あの当時、三井三池を含め て、全国の炭鉱の閉山や首切り合理化が推し進められ、その反対闘争の中で三池が言わば“天王山”で、最後の砦と いわれておりました。このため、三池労組の戦いを支援するため、炭労、総評から全学連に対しても応援の要請があ ったのです。
 全学連としては、安保闘争敗北の後でもあり、数は多くありませんでしたが、全国から200人程が三池をめざし て集まりました。私達の大学からも数人が参加し、昭和35年の7月、大牟田駅に降り立ち、三川鉱へ行きました。  もちろん、鉱山という場所へ行くのは初めてでしたが、そこはヘルメット姿の労働者であふれ、スローガンを書い た看板や旗が林立し、貨車やトロッコのようなもの、縦横に走るレール、たしか「キリハ」と呼ばれた黒光りする巨 大な建物など、見るものすべてがめずらしく、石炭の匂いと共に「ここが日本だろうか」と思いたくなるような光景 で、ある種の感動と身震いするような興奮を覚えたことが今でも思いだされます。
 もう一つ忘れられないのは、到着後まもなく、三池労組の人から全員にヘルメットや1メートルくらいの棒状の角 材を渡され、覆面用の手ぬぐいを用意するようにいわれた時の緊張感です。なぜなら60年安保当時の全学連といえ ば、闘争終盤になって、国会周辺での国会突入を図ったデモでは、先頭部隊こそヘルメットに覆面姿でしたが、私を 含めて大多数の学生や、まして地方都市のデモでは普通の格好に素手でデモに臨んでいたからです。それに加えて 「角材は、凶器とみなされて逮捕の口実となるのを避けるため、旗という名目で、棒の先に赤い布切れを取り付けて ある」との説明を聞くに及んで、いやがうえにも緊張したものでした。三池労組の人達も皆同じスタイルでしたので、 連帯の意思表明の印だろうと言う者もいましたが、仲間の大半は機動隊の突入が近いため、これで戦うのだという予 感めいたものを感じて、顔から笑顔は消えていました。
 私達は鉱内の簡単な囲いの仮設小屋をあてがってもらって、3泊4日程滞在しました。暑くて寝苦しい日は外へ出 て、炭鉱電車のレールを枕にして、星空を見上げながら眠りました。あれが案外と頭にヒンヤリと気持ちが良かった ことを覚えています。
 私達は若かったこともあり、「中労委の斡旋粉砕」とか「首切り合理化を阻止するぞ」などシュプレヒコールをし ながら鉱内デモをしたり、また、毎日開かれた決起集会などでは、炭労、総評、三池労組の人達の決意表明に「異議 なーし」と叫んだり、スクラムを組んで「がんばろう」の歌を合唱したりしておりました。当然のことながら三池の 主役は大多数を占める労働者で、全学連の方は威勢は良かったものの、小集団でもあり、どちらかというと“元気の 良い応援団“が参加しているという印象でした。緊迫した雰囲気の中でも、個々の組合員の人たちとは、笑顔で挨拶 したり、「頑張ろう」と言葉を交わしたりしていましたが、集まって討論するとか、体験を語り合うなどのふれあい は全くありませんでした。今思えば、もっと組合員や社宅の人達とのふれあいがあってもよかったのではないかと思 っています。
 ある日、大牟田市内を労組の人達とジグザグにデモをしていた時、規制しようとした機動隊と揉み合いになり、1 人の警官がデモ隊の中に取り残されたのです。その警官は頭を抱えてうずくまっていたのですが、そんな無抵抗の警 官を労組の人達は、例の棒で背中等をメッタ打ちしていました。それを見ていた私達の方が正直怖くなるほどでした が、炭鉱という所で命がけで働いてきた労働者の三井資本に対する憎悪というか、この闘争にかける強い姿勢を垣間 見る思いでした。それにくらべると、私達学生がいかになまっちょろい存在であるかということを思い知らされた場 面でもありました。もちろん警察側の対応も容赦ないもので、デモの混乱の中で殴られ、血を流しながら逮捕された 労働者や仲間もおりました。
 結局、三池闘争は中央での政治的な決着により、中労委の斡旋による首切り合理化案を呑まされる形で終焉を迎え ました。最後の夜、広い鉱内を埋め尽くした大集会で、闘争終結を受け入れざるを得なかった苦渋の決断を、涙なが らに報告する三池労組幹部の絶叫。怒りと無念の思いを噛みしめながら、それを聞く労働者達の顔、顔。涙でぬれ、 月明りに黒く光った顔は、今も脳裏に残っています。
 三池闘争に参加した我々学生は、敗北に近い妥協的決着が不満で、「なぜ最後まで闘わないのか」「日和見主義粉 砕」などと口々に不満の声をあげ、炭労や総評のオルグ達からはそれがかえって目障りだったのでしょう。「争議は もう終わった。ご苦労さん」と暗に帰宅を促され、労働者との形ばかりの交流集会の後、しぶしぶまた列車に乗って 大牟田を後にしたものでした。
 帰りの旅は、全力で戦ってきた闘争に全て敗れた虚脱感と、所持金がほとんど無くなったための空腹感に耐えなが ら、各駅停車の鈍行、準急を乗り継いでの”北帰行”でした。
 「全ての戦いは終わった」はずでしたが、大学に帰ると、闘争のためにほとんど講義に出席出来なかった間に、か なり遅れてしまった学問を取り戻す“戦い”が待っていました。これがまた大変な戦いで、十分な教科書が無かった こともあり、応援してくれる同級生からノートを借りたりして、必死になって勉強しました。教授陣の「自分勝手に 講義に出なかった報いだ」といわんばかりの冷たい視線に耐えながら、ともすれば「留年もやむを得ないか」と弱気 になる自分と戦い、進級するまで何回も再試験を受けました。生活費の大半は、アルバイトで賄っていたとはいえ、 決して豊かではなかった両親のことを思うと、留年は許されなかったのです。その甲斐あってか、私は留年すること なく何とか卒業でき、インターンの後、医師国家試験にも合格することが出来ましたが、仲間の中には留年したもの も何人かいました。
 三池闘争後は、現地の人達との交流は全くありませんでした。しかし、その後も各地の炭鉱が閉山するニュースを 見たり、大牟田という名前を聞いたりする度に、三池でのことが思い出され、国の政策の犠牲になったあの気の毒な 労働者の人達は、今ごろどうしているのだろう、新しい仕事にありつけたのだろうか、などの思いがいつも胸をよぎ りました。
「三井三池」、「大牟田」は私にとって一生消えることの無いキーワードであり、現在の大牟田市や三池炭鉱の跡が どうなっているのかわかりませんが、定年年齢になった今、機会があったらぜひ、訪れてみたいと思っています。(医師)

(参考)
 全学連。全日本学生自治会総連合の略称。1948年(昭和23年)9月発足。左翼系学生を主体とした全国的な 共闘組織であり、良くも悪くも戦後の学生・新左翼運動の中心となった。現在では民青系、中核派系、革マル派系、 解放派系と四つの全学連が存在する。これに至る経緯は複雑で、血生臭いさまざまな事件も起きた。
 共産党=民青系全学連は、学生生活の日常要求路線だが、革マル、中核、解放の反代々木系は、学生運動を革命闘 争、階級闘争として位置づけている点で、同じ「全学連」を名乗るが根本的に性質が違うと言える。 (全学連 参照)

 60年安保闘争では、昭和35年5月26日17万人国会包囲デモがあり、同6月15日には国会突入闘争があっ た。しかしこの時、東大生の樺美智子さんが警官隊との衝突の中で死亡するという悲劇が起きた。直後、岸内閣は退 陣し、60年安保闘争は幕を降ろした。
 同年7月、全学連は三池闘争にもオルグとして参加。この三池闘争においても、樺美智子さんの悲劇より先の同年 3月に三池労組組合員であった久保清さんがピケの中で暴力団に刺殺されるという事件が起きていたことから、「安 保と三池はひとつ」と言われるようになり、以後、久保さんの遺影の横には樺美智子さんの遺影も飾られるようにな った。

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