山崎常雄さんの「忘れな草」

(「忘れな草」の中から「炭鉱で働いていた女性たち」より)



山崎常雄さん。大正元年、熊本県荒尾市万田生まれ。
 ここに紹介する作品は、荒尾市の女性史研究グループからの依頼により、山崎さんが三池炭鉱万田坑で働いていた母親の ことを「我が母を語る」というテーマで講演、その時の原稿を基に自ら作成された小冊子を1部譲り受け、私が作者の許可 を得てここに転載したものである。


私の両親は、万田坑の地下千尺の坑底で採炭夫婦として働いていました。
 万田坑の開坑に伴う鉱夫募集に応募してきた各県の若者たちが、一旗あげようと夢ふくらましてやって来たが、聞くのと 見るのは大違いで、真っ暗い坑内で乏しい安全灯の光をたよりに切り羽でツルハシを振るう先山、黙々とザルに石炭を入れ て天秤棒で担ぐ後山、天井には今にも落ちそうな岩塊。これらのことを若者たちは「常に落盤事故による死の恐怖にさらさ れている坑夫たち」と言い、「きょうあって明日なき命という観念が強かった」とも言い残して、彼らはいつの間にかケツ 割っていなくなっていました。
 母たちは明治36年の採炭年度より少し遅れて就労しているが、かの若者たちが、過酷なノルマと厳しい劣悪な労働条件 や坑内労働の危険性にたまりかねて穴割った噂は、数年経っているのに、彼らが残した「きょうあって明日なき生命」との 言葉は、母たちの仲間の間でひそやかに語り継がれていたのでした。「だからこそ頑張って命は大事にしなければ」は、彼 女たちの合言葉でありました。
 母は、夫と一緒とはいうものの女の身でありながら、他の同僚たちと共に採炭現場の第一線に立ったのでございます。か よわい女と言われた時代に、荒くれ男たちが逃げ出した現場に命を張って立ち向かうこの女たちの中の一人が、母であった と知ったとき、私は母に対する恐れに近い尊敬の念に打たれたのでございます。私は坑内労働の経験はございませんので、 母がどんな仕事をしていたかは、私が物心ついてから両親の会話の中から、そして、同僚である同じ納屋の大人たちの話の 中から漠然とした知識を得たに過ぎません。そこで私の話が未消化のまま出てしまうことがありはしないかと心配していま すが、お気づきの点はどうぞご指摘いただけたら幸いだと存じます。

1 母の坑内での仕事
 初めに、母たちの作業の服装はと言うと、六尺兵児をきりりと締め、足には脚絆を巻き、足袋をはいて草履を履き、膝まで の短い半天を一枚着ていました。男は越中フンドシで、他は女と一様でした。地下足袋が市販されていたのは大正12年であ り、母はその前に万田坑を辞めていますので地下足袋の恩恵にはあずかっておりません。
 入坑時に一番に行く所が繰込場と言い、ここで職員からそれぞれ切羽を宛われます。切り羽には先山2人、後山2人の計4 人が力を合わせて採炭に精出すそうですが、切り羽の大きさは写真で見ると先山2人が炭壁に向かってツルハシを振っており、 切り羽の幅は3米、高さ1米80位には見えました。後山2人はそれぞれの先山の後方にいて、切り出された石炭をザルに入 れて天秤棒で炭車まで担い、ザルの石炭を移したらまた元の切り羽に帰って石炭を運ぶのです。賃金は石炭を何函炭車に積ん だかによっての出来高払いで、もちろん先山と後山には差はありますが、それぞれ4人の分け前が貰えるわけです。
 こうして石炭をどんどん掘っていると、天井を支える力が弱くなり、一定限度を過ぎると落盤と言って天井の石炭や岩石が ドサッと落ちることがあるそうで、炭鉱の事故はこれが一番多く、頭を砕かれたり、生き埋めになったりの大事故になるし、 それこそ命がけで母たちは働いていたのです。そこで先山と後山は安全について話し合い、坑木置場から丸太を集め、先山た ちが上の方を組み込んだり、長さを合わせたりする時は、後山たちは丸太が動かぬように支えたり、天井に張る丸太を押し上 げたりして協力し合って枠張りをしたといいます。「もう少し石炭を掘ってからと言っていては、事故は待ってくれない」な どと安全作業にこれっぽちの妥協はなかったようです。坑内は換気が悪く湿度も高く、高温の所もあったそうで、そんな切り 羽では現場に入っただけで汗が滴り落ち、男は越中フンドシ一つ、女は六尺兵児一つで働いたと言います。母の六尺兵児は、 今日のお相撲さんのまわしと同じ形で、長さ六尺ばかりのサラシで締めていました。母は、白では具合が悪いといって、倉掛 の木葉染め物屋さんで染め方を習って、自分で藍色に染めましたが、ゴム手袋など無かった時代なので両手とも青く染まって、 5,6日は色が消えませんでした。
 汗が出ると喉が渇く、喉が渇けば水を飲む、水を飲めば汗が出る。この悪循環には大分悩まされたらしく、私が物心ついて から汗まみれになって帰ってきて水をがぶ飲みすると、とてもやかましく注意しました。「そんなにして飲んでは渇きは止ま らぬぞ。ただ身体が疲れるだけだから初めの一口でうがいして吐き出し、次に少し口に含んで奥歯で噛むようにして飲め。三 番目には今度はグッと飲んでよい」。母たちは、そんな暑い切り羽に行くときは、食塩を小さな缶に入れて下がったようです。 母たちは坑内労働のことを坑内下がりと呼び、坑内に行くことを「さがる」と言い、家に帰ることを「あがる」と言っていま した。ケージで下がったり上がったりするので、そう言ったのだと思いますが、これは母たちの常用語で、今になっても私に その言葉がしみついて残っていて、こうして時々出ることがあります。
 坑内には湧き水が川のように流れている所もあるそうですが、その水は金気が多くて味が悪く飲めなかったので、母は3リ ットルくらい入る大きな水樽を肩に、手には父の分と自分の弁当を持ち、父は天井枠張りに使う斧、ハンマーなどの坑内七つ 道具を、刃物には麻で作った刃掛けをして丈夫な袋に入れ、ツルハシと一緒に肩に担いで下がっていました。持っていった弁 当や水樽、工具などは、枠張り支柱に工夫し整頓して置かれてあるが、ある時、カチャンと物が落ちる音がしたので、そちら を振り返ってみると、大きなネズミが跳び上がって逃げていくところだったそうです。弁当を吊り下げていた所には、包みが 弁当箱の形に食いちぎられて、包みだけがぶら下がっていたそうです。
 「坑内にはネズミだけではなく馬もいたよ。母さんたちが入れた石炭がいっぱいになると、その炭車をいくつもつないで荷 揚場まで引っ張って行くのだよ。馬小屋もあって、そこには沢山馬がいたよ。」と私に話をしてくれ、そして「私は馬でなく て人に生まれてよかったよ。仕事が終わると上にあがってうまい空気が吸えるし、太陽も拝める。坑内馬は一生坑内で過ごさ ねばならぬ。」としみじみと私に語ってくれたことがありますが、いま母が言ったことを考える時、母はどこまで本気で言っ たのだろうか、母は仏教で言う、畜生道、修羅道、餓鬼道など六道の世界のことを知っていて話をしてくれたのではないだろ うかと、母の心情を思うとき無性に切なくなるのであります。
 母の肩は幼児が落書きしたように縦横斜め、それは様々な青い傷が出来ていました。入れ墨が出来ていたのです。母は「お 母さんが初めてお父さんに連れられて坑内に下がった時、初めてのことではあり、誰も担い方なんて教えてはくれなかったよ。 ザルに石炭を入れて「よいしょ」と立ち上がっても肩が痛くてどうしようもなかった。右が痛ければ左肩で、そしてまた右で と交互に担っているうちに肩の皮が破れて沁みだした。でも痛いからと担わねば仕事にならず、歯を食いしばり、涙を流しな がら一塊の石炭でも炭車に入れねばと頑張っていたら、父が心配して見に来てくれた。父は安全灯のそばに連れて行き、きれ いな水に浸したタオルでその傷を洗って上からタオルで押さえ、「このままジッとしていよ」と言い残して母のザルを担いで さっさと炭車へ行った。炭が無くなると切り羽で相手の先山に迷惑をかけないようにさっさと石炭を掘り、溜まったらまたザ ルで運んだ。」。また、「私はこんなに心優しい夫に巡り合えて幸せであったよ」と、前にも後にも初めて自分の苦しかった こと、それを助けてくれた父のことを、このように話してくれました。

2 納屋
 私が生まれたのは大正元年11月で、場所は現在の市立万田保育園の裏の崖の上に建てられた納屋で、東側は五中とコンク リート三角柱の垣根で仕切られています。万田坑の第1竪坑が掘り始められたのが明治30年で、明治35年に着炭したと言 われています。採炭には測量方、掘進方、安全担当者など様々な職種が必要で、少なくとも数百人の坑夫が必要になったと思 われ、会社も県の内外に手広く坑夫募集を始めると共に、これら応募してきた人達を収容する建物も急造されたと考えられま す。袴岳の頂上から裾野を見渡すと袴岳の名のとおり、尾根と谷の連なりが切りもなく続いているのが見えます。それを万田 坑口の近くから尾根を崩しては谷を埋め、次々に納屋を建てていきもした。会社はそれらを管理しやすく一区、二区、三区、 四区、五区と区切っていきましたが、私が生まれた所は五区(昭和3年には山上町)で、建造された納屋では一番東側に位置 していました。
 出入口の3尺の板戸を開けると間口9尺、奥行6尺の土間があり、一段高くなって四畳半の畳の間があり、ここが私達の居 間兼寝室兼食堂で2枚の明かり障子と雨戸がありました。右側に幅6尺の二段になった奥行3尺の押入があり、ここに寝具や 着替等を入れるところでございました。畳の間と土間の仕切の建具は無く、聞くと、穴割る者が多くて、係員は夜中にも巡回 して寝ている頭数を数えて調べるので夜も電灯はつけっぱなしに命令されていたといいます。出入口の右側に板で造った流し があり、その上に板を等間隔に打ち付けてスライドして開閉する狐窓があり、閉じると中は真っ暗になりました。流しの右側 に土で造ったかごが一つ、その横に水瓶が置いてあり、共同水道から汲んできた水を入れておくのです。
 地域の商店や民家にはまだ電灯はなく、石油ランプが唯一の照明具であったが、納屋では五燭光ではあったが電灯があって、 風が吹いても石油ランプのように消えることもなく、ホヤ磨きしなくてもすみました。天井のない部屋では、吹雪の夜には垂 木の隙間から寝ている私達の襟首に雪が吹き込んだこともありました。便所は共同で一棟(5〜6戸)に一箇所、子供の頃夜 は恐ろしくて困りました。水道は20戸に一箇所、夕方は混むので並ばねばなりませんでした。
 米、味噌、醤油などの食料品や日用品は売勘場と称する会社の販売所から、市価より25パーセント位安く通帳で買い、給 料で清算されました。
 納屋から外部へは自由に往来出来ないように頑丈な杭を打ち、6尺の焼き杉板を張り巡らせ、出入口は坑口へと納屋事務所 へ開いているだけでした。両親が坑内に行くときは、板塀の近くに母方の祖父母が住んでいたので、母が大きな声で呼ぶと祖 母が塀の下に駆け寄ってきました。すると、母が抱いている私の後帯に父が水汲み用の荷をかけて私をぶら下げて板塀の上か ら差し出すと、祖母は声をかけながら私を受け取るのでした。「泣きもせずバイバイと手を振っていたよ」とは祖母の述懐で ございます。母たちが上がってきて「今帰ってよー」と呼ぶと、「はーい」と祖母が返事をして私を抱いてきて、父が差し出 した荷に私の後帯を引っかける。父が「よいしょ」と気合いを入れて私を引き上げると、待っていた母は素早く抱き取り、二 度も三度も高い高いをして私をしっかり抱きしめて頬ずりをしながら、そこら中を「よかった、よかった」と飛び回って喜ん でいたそうです。上がってきて我が子の顔を見て、「ああ生きて帰れてよかった」の喜びがこのような爆発的な歓喜の愛撫に なって表現されたのでありましょうか。母に抱かれて乳首をくわえながら見上げる母の瞳の中に、私の顔があるのを覚えてい ますが、坑内特有の匂いと母の体温が私の身体にほのぼのと伝わってくるのでした。

3 母は夫にどのように仕えたか
 私が5歳になった時、妹が生まれました。母はそれを機会に坑内さがりを辞めて、育児と夫の世話に専念しました。万田坑 にはお月様を煙たがらせた5本の大煙突が南北にずらりと並んでいて、吐き出す煙は実に壮観でしたが、この煙が二つに割れ て出ることがありました。その時は坑内に不幸があると伝説めいたものがあって、それを見た母は外出していても急いで帰っ てきて、神棚に灯明をあげ、一心にお詣りをしました。坑内の危険性は人一倍知っているだけに、父の安全を祈っている厳粛 な雰囲気は私にも伝わり、母の横に並んでお詣りをしました。
 坑内勤務は三交代制で、一番方は朝4時に出て夕方4時に帰り、二番方は12時に出てよる0時に帰ってき、三番方は夜8 時に出て朝8時に帰ってきました。二番方の時は、父が帰ってくるまできちんと起きていて「ご苦労様でした」と挨拶をしま した。一番方の時はまだ暗い4時に出ていく父に「気をつけて、ご安全に」と言って送り出すことを欠かさず、買い物に行っ ても4時前には帰っていて父を迎えました。母が一番気を使ったのは、父の三番方の時で、私達が騒いだり妹が泣いたりして は父の熟睡を妨げるので、寒い時や雨の時は祖父母の家へ、暖かい時は外に連れ出して遊ばせてくれました。家には午後4時 頃に戻ると眠り足りた上機嫌な父は笑顔で迎え、先ず妹を母の背から抱き取り、自分の懐へ入れて、外へ出ました。母は晩ご 飯の用意に取りかかるのでした。

4 子どもの躾
 母の実家は貧しくて口減らしのため小さいときから子守奉公に出され、学齢期になっても学校には行けなかったそうで、自 分自身が無学文盲で子供の躾も勉強も皆目見当もつかなかったことと思います。しかし、私が嘘をついたら徹底的に正邪を説 き、弱い者いじめしたら、その子の家に連れて行って心底からお詫びを言わせました。
 私は明治43年5月に開校した私立三井万田尋常小学校に大正8年4月に入学し、大正14年3月に6年を卒業した第15 回卒業生です。
 私が小学校に入学する時は両親共大変喜んでくれました。父が買ってくれたのは、桜マークの徽章の中央に小の字があり黄 色の3本筋(三井の印)の帽子と、鞄は肩掛けの白い丈夫な鞄でした。母は久留米かすりのあわせと羽織と膝までのしまのは かまを新しく作ってくれました。そしてこれらを着せてあっち向けこっち向け、帽子のかぶり方から色々世話をしてくれまし た。
 学校は現在の万田保育園の敷地で、東側に小使室と3教室、別棟に宿直室、県道沿いに中仕切りを外すと講堂になる4教室 がありました。私達のクラスは男女合わせて30人位でした。それで男女の区別もそう無くてみんな仲良く勉強出来ました。 学校から帰ると学校であったこと、友達のこと、先生のお話などを話すと、母は目を細くして喜んで聞いてくれました。字を 習うようになると、私が石盤に石筆でハタ・タコ・コマなどと書いて見せると、母もまた真似て書き、後には自分の名と私の 名もカタカナで書けるようになりました。これが私の予習・復習につながり、帰ってから母に話さねばならぬので、先生の話 も真面目に聞き、私自身の勉強にも大変役に立ったようです。
 炭鉱で働いた女性達の中の一人である母を私はお話ししてきましたが、万田坑の修羅場の中に生き抜いてきた明治生まれの 女の一徹さを母に感ずるのでございます。採炭作業はわずかな年数でありましたが、母特有の霊感というか繊細な神経がこの 安全作業に対しては寸分の妥協がなかったことが幸いしたのではなかろうかと思います。子供の躾についても自分の信ずる一 徹さに妥協はなかったのでございます。私の母はこんな女でございました。

私は平成12年11月28日には88歳になります。日本人の余命は76歳と言いますが、私はすでに 12歳も生きすぎていることになります。そのせいか老眼もすすみ、難聴は老化現象、足は変形性膝関節炎、何をとっても老 いたりと観念して歩行にも杖の介助を受け、もう余命もいくらもない私です。
 私の老化がこれ以上進まないうちに私の知っている限りの母のことを残しておきたい、万田坑の阿修羅の中を生き抜いてき た明治生まれの女の一徹さを私は母に感じ、この母のことを今話しておかねば私が死んだら誰も知らないと思うと、小さい時 から苦労し、長じては地下千尺の草創期の万田坑の坑底で血の涙を流して働いて万田坑発展の一端を担い、5人の子供を産み、 志半ばにして死んだこの母のことを皆さんに知ってもらいたい、この念願がこの「わが母を語る」に踏み切らせたのでござい ます。
 母の命日は昭和4年4月3日、万田山神様の桜が八分咲きで境内がピンクに染まってそれは見事で、34歳の若さで亡くな った母への自然のはなむけであったかのようでした。

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