合葬之碑  福岡県大牟田市竜湖瀬町63 順照寺


 この「合葬之碑」は、明治25年5月福岡県元三池監獄により建立されたもので、三池炭鉱 の坑内苦役に出役し、非業の死を遂げながらも、ついに引き取ってくれる親族・知友のなかった囚人労働者の遺骨が葬 られています。
 三池炭鉱で囚人労働が始まったのは官営となった直後の明治6年です。まず、福岡県監獄の囚人50名を派遣し、竜湖瀬 坑から大牟田港までの石炭運搬に就労させました。続いて、福岡・熊本・長崎・佐賀県囚人の懲役場を造って収容し、 竜湖瀬坑、大浦坑、七浦坑の採炭に就労させました。明治16年に三池集治監(じゅうちかん)が設置されると、三池炭鉱 での囚人労働はいよいよ本格化し、明治22年に「三井」が三池炭鉱を取得した時は、囚人労働者が総労働者の69パーセン トを占め、三池炭鉱の主力となっていました。「三井」が建立した「三池炭山創業碑」の碑文にも評価されているように、 「三井」は囚人の安定安価な労働力を礎石として世界屈指の大財閥へ成長しました。また、郷土大牟田発展の原動力とし ての「人柱」だったとも言えます。
 明治17年、福岡県監獄は竜湖瀬に40坪の土地を墓地として購入、そこへ仮埋葬した死没囚人の遺骨を、明治25年に合葬 したのが、この「合葬之碑」です。これは近くの民家の庭先にあったのを、昭和46年、囚人墓地保存会によりここへ移し ました。
 また、平成8年末、勝立の三池集治監墓地跡から発掘された遺骨の一部も順照寺のご厚意によりここへ分骨埋葬しました。
  (大牟田囚人墓地保存会による「合葬之碑」由来より)



(2001年3月12日撮影)

 "合葬之碑"の存在は、これまでごくわずかな有志をのぞいてはほとんど世に知られていなかっ た。大きさは23センチ真四角で、高さ1メートル16センチの石碑。裏面には、「福岡県元三池監獄在監人ノ墓 明治25年5月建」 の文字が刻まれている。
 "合葬之碑"はこれまで、大牟田市竜湖瀬町の民家の庭の片隅に隠れるようにして建てられていた。しかし、そこを訪ねるにも 道も無く不便が嘆かれていた。
 はからずも、大牟田囚人墓地保存会の活動を通してこの碑が存在することを知った福岡刑務所としても、「このままでは・・ ・」ということになり、移葬したい旨の申し入れがあったので、すぐ近くの順照寺の協力を得て、同寺の境内に移葬することが 実現したのだった。近くに住む人々の証言によれば、もともとそこかしこに散在していた囚人墓を一つに集めて合葬したのがこ の碑であるという。
 囚人労働は、大牟田市民生活の歴史の原典でもあり、その罪のためとはいえ、非情な死を遂げていった犠牲者たちの冥福を祈 るばかりである。
  (昭和46年5月1日付け三池労組機関紙「みいけ」参照)



合葬之碑移転前の建立場所 (2006年8月17日撮影)

 順照寺の裏側に隣接する民家。現在は空き家となって荒れ果てているが、この庭の片隅に 合葬之碑はあった。順照寺住職のご好意により同寺階上より撮影。
 同住職の話によると、同所も2度目の移転場所で、そもそもは同所からさらに数百メートル離れた瓦町に合葬之碑はあ ったという。現在同地は住宅地になっているが、昔は原野で、三池監獄在監死没囚人たちの墓地であったという。それが 戦争により焼け出された人たちの住宅地となり、合葬之碑のみさらに隅へ追いやられ、そこにまた民家が建てられたという のが真相のようである。当時の遺骨は最初はあったらしいが、何度も墓が移転しているうちに動物がくわえて持ち去ったり、 あるいは自然風化して、当初からの遺骨は無くなってしまったらしい。

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