三井三池三川坑炭塵大爆発  福岡県大牟田市


 昭和38年11月9日午後3時10分頃、大牟田市西港町 三井三池鉱業所 三川鉱第一斜坑 (長さ約2キロメートル)の坑口から約500メートルの坑道で大爆発が起きた。死者458人、CO中毒患者約839人の犠牲 者を出す大惨事だった。

 九州工業大学教授(当時)荒木忍さんは、原因について、「炭じん爆発の防止策としての炭じん除去と撒き水、岩粉撒 布を怠ったことにより、坑内に炭じんが蓄積され、一触即発の状態にあった中で、ボタ積炭車の連結環が破断逸走脱線し、 そのときの摩擦熱、あるいは摩擦火花が坑道内の炭じんに着火して引き起こされたと推定する」と結論づけた。

 福岡県警は、当初この鑑定結果を採用し、福岡地検も会社幹部を起訴に持ち込もうとしたが、会社側は新たに学者を雇 い入れ、「揚炭べルトの上の原炭に付着していた炭じんに火花が着火したものであって、これは不可抗力な事故である」 という「揚炭ベルト説」を主張。その後、事件の起訴に積極的であった福岡地検検事多数が突如転勤させられるという 不可解な事案が起きて、新メンバーで構成された福岡地検は三井鉱山幹部を「事故原因が科学的に立証できない」として 不起訴処分とした。大企業を優先擁護する当時の政治力が働いたのではないかと言われている。

 この結果を力にした三井側は、犠牲者たちの災害補償さえその後渋ることになる。



三川鉱坑口から噴き上がる黒煙。爆発時の地鳴りは数キロ先まで届いた。
撮影者は、当時大牟田市在住の植埜吉生さん(故人)、当時19歳。

 

(見取図:三池関西写真展より)

 

爆発直後の三川鉱坑口(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

救助隊(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

次々と運び出される遺体

 

(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

真っ黒く汚れていた遺体は、野戦病院と化した中で、ホースとブラシで洗浄された
(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

黒くすすけた人車の中で、座したまま死んでいる者、多数
(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

助かった者も、その多くが、後にCO中毒患者となって、悲惨な生活を強いられることとなる
(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

(写真提供:元・労働大学事務局 佐藤さん)

 

組合葬(写真提供:織田喬企さん)

 社葬前日の昭和38年年11月23日、大牟田市 笹林公園で三川鉱第一斜坑炭じん爆発被災者に 対する組合葬がおこなわれた。
 458名の遺影が並ぶなか、在りし日の夫が、父が、子が、スクラムの中で歌っていた組合歌「炭掘る仲間」の涙の大合唱 が秋の公園を流れ、参列者は涙にむせんだ。

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