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ひと口メモ
 「炭鉱」と「炭坑」  「炭鉱」とは、石炭鉱山の略。一般に石炭生産事業場のことを指す。一方、石炭を採掘し運び出す坑 (場所)を「炭坑」と言っている。また、機械化される以前の「石炭関連施設」を表わすときに「炭坑」を用いる場合もある。
 石炭  今から2000万年〜6000万年前に茂っていたメタセコイヤ等の針葉樹類などが湖や沼の底に積み 重なり、土砂などで地中に埋まり、分解作用や地中の熱、圧力などにより変化してできたもので、「石油」と同じ化石燃料。 石炭は全世界から産出されるが、特に中国、北アメリカ、ロシア、オーストラリアから多く産出される。いま、全世界の石炭 埋蔵量は10兆トンともいわれ、このうち採掘可能な石炭埋蔵量は6000億トン近くで、約300年間の全需要を満たす計算になる という。
 亜炭  石炭になりかけの鉱石のことで、今から約500万年前、地上の樹木が湖の底に積み重なり、それが土砂 に埋もれて、長い年月の間に炭化したもの。石炭に比べて質は良くなかったが、戦争中や戦後間もない頃の燃料不足の折は石炭に 代わって重宝された。
 「ボタ山」と「ズリ山」  採掘された鉱石から除かれた不要の捨石を「ボタ」、あるいは「ズリ」と言い、これらを捨てた場所が山 となってボタ山と呼ばれた。ボタ山を漢字にすると「硬山」と書き、正式名は鉱山保安法で「捨石集積場」と呼ぶ。九州方面では 「ボタ」、北海道方面では「ズリ」と呼ばれ、その山の高さはまさに石炭産業繁栄の象徴でもあった。
 なお、三池炭鉱においてはボタを海に捨てていたのでボタ山というものは無い。また、地域によっては、丘の上から谷間に落とし て捨てていたようである。
 炭坑節
 炭坑節は元々石炭の仕分けをする選炭婦が唄っていた「選炭唄」で、炭鉱労働の中で 自然発生的に生まれた仕事唄である。これにその後花柳界の三味線伴奏がつき宴席で歌われるようになり、やがてレコード化され、 「戦後の復興は石炭から」という国策に沿って毎日のようにラジオから流れるようになって、一般にまで知られるようになった。そ の唄の中で全国的に知られているのは福岡県大牟田市の「三池炭鉱」だが、もともとは福岡県田川市の「三井炭坑」が本家であった ようである。(田川市石炭資料館)
 非常  炭鉱における大災害の筆頭はガス・炭じん爆発と水没である。他のもろもろの災害と区別して、「ガス非 常」「水非常」と呼んだ。また、その中でも特に大きな災害を「大非常」と呼び、鉱名を冠して「方城大非常」(大正3年、三菱方 城炭鉱ガス爆発、687名死亡)、「三池大非常」(昭和38年、三井三池炭鉱炭じん爆発、458名死亡)などと名づけた。(写真万葉録  筑豊 参照)
 万田坑  明治35年開坑、昭和26年閉坑。その約50年間、三井三池炭鉱の主力坑として稼動し、熊本県荒尾市発展の 原動力にもなっていた。万田坑の開坑は、単に出炭量を増大するためにだけではなく、それまでの坑口を延命する事も目的の一つと され、三川坑、四山坑、有明坑の坑内排水を一手に担っていた。閉坑になった後、第一竪坑は昭和29年解体されたが、第二竪坑は揚 水と坑道管理のため平成九年の閉山まで施設が維持されていた。地下坑内で三池の各ヤマとつながっている。平成10年5月、竪坑やぐ らなどの建造物が国の重要文化財に指定され、敷地が平成12年国の史跡に指定された。
 ひだるか  「まだ仕事は残っとるばってん、ひだるかけん」などと使い、共通語で「空腹、ひもじい」のこと。そして また「ひだるい」を「ひもじ」と言った。「ひだるい」の「ひ」は「弛し=疲れて気力がない」が「たるし」→「だるし」に転化した。 (かまぼこ屋HPより)
 「ひだるか」と言えば、福岡県大牟田市出身の映画監督が制作する長編劇映画 「ひだるか」がいよいよ2005年春、全国各地で上映予定。いま各界から注目されている。
 三池鉄道  かつては福岡県大牟田市内を三井三池炭鉱の電車が一周し、その一部は熊本県荒尾市まで延びていた。それは、 地元の人々には「炭鉱電車」と呼ばれ親しまれていた。しかし、その正式名称は果たして何であったのか。昭和31年5月発行「大牟田市 街地図」には「三井鉱山線」と記されている。最近まで残っていた鉄道施設には「三池事業所鉄道課」、荒尾駅北にあるガーダー橋には 今も「三井三池港務所」と表示されている。また、「資料三池争議」という本の中では、「三池炭鉱専用線」、そこから荒尾市方面に延 びる支線には「玉名専用鉄道」と記されている。なお、新聞記事では通称「三池鉄道」と紹介されていることが多い。
 炭鉱社宅  三池炭鉱は福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがって稼動していた。よってその炭鉱社宅も両市に所在し ていた。その集落はおおよそ鉱区ごとに区割りされ、管理職用に職員社宅、一般鉱員用に鉱員社宅として区別されていた。それらは概 ね2戸から7戸までの棟割長屋造りであった。
 それでは、両市を合わせた炭鉱社宅の人口および世帯数は如何ほどであったのか。三池炭鉱労働組合編「みいけ20年資料編」による と、昭和34年9月の三井鉱山三池鉱業所の鉱員数13,523人、職員数1,282人とあり、地元農村地域からの通勤組をのぞいても、世帯数は 約14,000世帯、人口は家族4人としても約56,000人が炭鉱社宅で暮らしていた勘定になる。
 その内昭和35年における荒尾市内炭鉱住宅の人口および世帯数は人口21,138人(男10,297人、女10,841人)、世帯数4,322戸 であった(荒尾市企画調整課)。
 なお、三池炭鉱においては「炭鉱社宅」と呼ばれていた炭鉱長屋も、筑豊方面においては「炭住(炭鉱住宅)」という呼び方をして いたようである。その呼び方に何らかの差異があるのだろうか。
 厚生理容所  厚生理容所ー炭鉱社宅にあった散髪屋さんの正式名称である。独立採算制で三井鉱山の社員ではなかったが、 社宅は会社から貸してもらい、電気代、水道代、共同風呂代を社宅事務所へ払いに行っていた。理髪代を会社と組合の両方から低料金 に抑えられ、生活は決して楽ではなかったという。ちなみに、一般の理髪店では250円だった理髪代が、社宅内の厚生理容所では55円と 安く、その低料金目当てに社宅外の客も多く来て、まさしく貧乏暇なしであったという。また、炭鉱社宅に住んでいながら、外(ガイ) の人と言われていたやるせない思いもあったという。三池炭鉱閉山後もそれら厚生理容所の何軒かは場所を移して現在も営まれている。
 「四山」と「四ッ山」  熊本県と福岡県に所在する「四山」と「四ッ山」。どちらが正しいのか、その表示にとまどうことしばしば である。福岡県大牟田市と熊本県荒尾市の町別世帯数および人口一覧表には、どちらも「四ッ山町」と記載されている。が、大牟田市 街地図では「大牟田市四山町」であり、荒尾市街地図では「荒尾市四ッ山町」となっている。虚空蔵さんで賑わう四山神社の鳥居は 「四山神社」と表記されているが、地図には「四ッ山神社」と表示されている。大牟田市にあった港沖四山鉱の事業所表示は「四山鉱」 となっているが、荒尾市の旧四山鉱にあって、昭和45頃に廃止された請願駐在所の看板は「熊本県荒尾警察署 四ッ山鉱警察官駐在所」 (高木尚雄著「わが三池炭鉱」の写真より)と表記されている。荒尾市バス路線図には、バス停名「四山」で表示されている。
 さて、どちらが正しいのか。それとも、どちらでもいいのかとさえ思えてくる地名である。
 安眠所  昭和56年ゼンリン住宅地図の大牟田市新勝立町2丁目に「安眠所」と書き込まれてある。「安眠所」 とは何か。三池炭鉱を定年退職した炭鉱マンに聞いてみた。まだクーラーが一般家庭に普及していなかった時代、三番方の仕事 から帰ってきた炭鉱マンが気持ちよく昼寝できるようクーラーを設備した仮眠施設のこと。各社宅に一箇所はあって、広さは六 畳二間程度、主に集会所に併設されていたという。
 昭和36年、三池から岐阜に移住したとき、その社長の家で扇風機というものを初めて見た。岐阜から京都の会社寮に移った昭 和39年頃、そこにあった冷蔵庫はまだ氷で冷やされていた。そして我が家にクーラーが入ったのは平成になってからである。
 敷次郎  井上円了博士の「妖怪学」という本の中に、長崎の辻野という人の妖怪実見談がのっているが、 それによると、伊予(愛媛県)別子銅山など数百年来引きつづき採掘した鉱山には、かならず妖怪がいるといわれている。  それは俗に「敷次郎」という名の妖怪である。姿はふつうの鉱夫と同じ格好でつねに坑内に住み、顔の色は蒼白で、歩く ときも人間と同じような足音がするが、ことばはいっさい通じない。体からは鉱石を採掘するような音や、水を汲むような 音がするという。
 ある人が、一度この妖怪を見ようと思って機会を待っていたところ、去る年、備中(岡山県)の小泉鉛山に行ったとき、 二度、この妖怪を見ることができた。この妖怪が、鉱山で死んだ人たちの亡霊のしわざではないかということは軽々しくは いえない。
 この妖怪が出るときには、「まず両足の爪がはがれるような感じがして、まもなく背から頭まで戦慄が伝わり、肌に粟を 生ずるのをつねとする」と、この人は妖怪体験ともいうべきものを記している。「敷次郎」は妖怪というよりも、幽霊に近 いものかもしれない。いずれにしても、そういう怪異なものに出会う前には、なんとなく前ぶれがある。精霊というものは、 このようにわれわれに"通信"をしてくれるものだとぼくは信じている。(水木しげる著「図説 日本妖怪大全」講談社文庫より)
 売店  三井三池炭鉱には通称「売店」と呼ばれていた会社直営の購買所があった。正式な店名は「三池 商事梶vと言い、旭町販売所も兼ねていた本社は大牟田市旭町3丁目10、現在のオームタガーデンホテルの所に所在していた。
 三川鉱には「三川鉱売店」、旧有明鉱には「有明鉱売店」と呼ばれた三池商事正山販売所(大牟田市正山町119)の出張所 があり、弁当のほか、特にあめ玉がよく売れたという。理由は「坑内ではタバコは吸われんけん、アメばくわえると」という ことらしい。
 その他、炭鉱社宅にも売店があり、新港社宅に「新港販売所」(大牟田市新港町6)、臼井社宅に「臼井販売所」(大牟田 市臼井新町1丁目14)、宮原社宅に「宮原販売所」(大牟田市宮原町2丁目)、七夕社宅に「七夕販売所」(大牟田市白川4-2)、 勝立社宅に「勝立販売所」(大牟田市新勝立町4丁目85)、小浜社宅に「小浜販売所」(大牟田市小浜町54-1)等があって、 「豆炭や練炭の配給があるとガラガラを曳いて売店まで取りに行った」(兄の話)という。
 炭坑太郎  「苦しさは楽しきことの前ぶれぞ 不平をはらえ 仰げ大空 炭坑太郎」。福岡県鞍手郡宮田町上 大隈にある"貝島炭鉱創業之地"記念碑の裏側に、もう一つ小さな記念碑が遠慮がちに建てられている。建立者は松木久松さん 。元炭坑夫だった。「炭坑太郎」とは、「タンコタレ」「タンコンモン」とも言われ、炭坑労働者に対する蔑称であったが、 松木さんは 「おー、俺は炭坑太郎たい。そのどこが悪かつか。労働は理屈じゃなか。理屈ばかりでは飯は食えんばい。」と、 自らを「炭坑太郎」と誇らしげに呼んだ。
 炭鉱労働者は少なくとも戦前までは社会からいやしめられへだてられていた。戦前の小作農民はひどく窮乏して、社会的地 位も非常に低かったが、彼らはそれでも「炭坑太郎」とは違うという自負心をもっていた。これと似たような言葉に、「タン コウピンギムヌ」と言う言葉が炭坑があった沖縄の西表島に残っている。不潔な身なりをしている者をあざ笑っていうときに 使うという。「炭鉱の脱走者」という意味だそうだ。
 炭鉱労働者に対する、こうした露骨な差別意識は、官営時代から昭和5年までの58年間、囚人を炭鉱で使役しつづけたという 歴史もあるだろうし、人を人とも思わない暴力的な労務政策にあったとも言われている。それらの歴史が、「炭鉱は普通のモ ンが行くところではない」という意識を一般に植えつけていったのではないか。
 「公には初め"坑夫"あるいは"鉱夫"から大正時代の"稼働者"をへて、昭和の時代には「鉱員」と称するように変わったが、 しかし炭坑労働者を蔑視する偏見とそれを表わした俗称は戦争が終る頃まで根強く残っていた」(山田市誌)。
 ヨロケ  「皮膚の色は青黒く変わり、吐き出す痰は墨のように黒く、歩くたびに身体はヨロヨロと揺れ、 さうして会社からも政府からも何の扶助もなくのたれ死んでしまう。これがヨロケ病である」(「近代民衆の記録2 鉱夫」より)。
 ヨロケ病は炭鉱よりも金属鉱山での発生が早かった。その後「珪肺」と呼ばれるようになり、鉱山労働者、砂岩・花こう 岩切り出し労働者等、砂の主な構成成分であるシリカ(石英)の粉塵を何年間も吸いこんだ者に発症した。
 昭和35年3月31日「じん肺法」制定により、ヨロケも「じん肺」と名を変えていったが、鉱山や炭鉱等の無機粉じんに限ら ず、今やさまざまな職場でじん肺が発生するようになった。例えば、綿ぼこりや線香の原料(木の皮や葉)等の有機粉じん によるじん肺が最近注目されているという。
 ヨイトマケ  "ヨイトマケ"とは、「建築の地固めをする際に、大きなつちの綱を引くときのかけ声。転じて、これに従事する人足。多く は女性」(広辞林)とある。昭和41年、美輪明宏による「ヨイトマケの唄」が キングレコードから発売、大ヒットした。しかし当時、この「ヨイトマケの唄」が間もなく放送禁止となる。歌詞の中にある "土方"という言葉がいけないという理由からだった。
 昭和41年といえば石炭産業のスクラップ・アンド・ビルド政策(閉山合理化)が進められていた時代であり、その国策に より多数の炭鉱労働者が職を失った。そして、旧産炭地の救済処置として道路や公園の整備など公共事業に失対の土木作業員 として元炭鉱労働者等が従事した。
 「自分が今あるのはヨイトマケをやってくれたお母さんのおかげだ」という内容のこの名曲がなぜ当時理解されなかったの か。一部の大人たちの身勝手な言葉の解釈がかえって差別を生みだしたのではないか。ひたいに汗して働く土方の姿のどこが 悪いのか。母もいっときスコップを手にして働いていたことがある。そしてその姿がたくましく光っていたのを覚えている。 
 三里小学校四ツ山分校  炭鉱があった四ッ山町の昭和35年10月現在における世帯数人口は、世帯数951、人口4545。炭鉱 がもたらす人口増加が、ここ三池炭鉱四ツ山社宅の中に、昭和30年9月4日、大牟田市立三里小学校四ツ山分校を開校させた。 昭和37年における本校の児童数1199、学級数25、分校の児童数343、学級数9。その後の昭和47年における本校の児童数558、 学級数16、分校の児童数161、学級数5。国のスクラップ・アンド・ビルド政策(首切り合理化政策)等により、分校の児童数も 年々減少、同年、分校は本校に統合され閉校となった。そして平成9年3月三池炭鉱閉山。現在、ここに一つの街があったとは信 じられないほどに四ッ山町は荒地と化して自然に帰している。