故郷に寄せる熱きメッセージ その1


●はじめに

 「炭鉱社宅がのうなってスッキリした」ち思とる人もおらっしゃるごたる。
 ばってん、そこが "ふるさと" やった者にとって、町名までのうなってしもて、何とも言えんくやしさで一杯やんの。 もういっぺんで良かけん、変貌してしもた新しかふるさとん中に、消えてしもうた自分の古里ば探してみたかーち思うのは、 私がいつまっでん未練たらしかちゃろか。遠くふるさとば離れた者の勝手な単なる感傷にすぎないちゅうとやろか。
 次んとは、私んホームページば見らしゃった方々からん感想です。それぞれん人が、ふるさと三池んこつばどげん想いよるか ち他の人たちにでん伝えたかとです。勝手ばってん、掲載したこつば許してくれんでっしょか。


私にとって、今も両親や友人などが住んでいるあの町は、いまも現在進行形なのです。
 思春期のころ、友人や彼女を社宅である家に連れてくることをとても恥ずかしく思い、なぜこんな思いをしなければならない のかとよく感じてました。近所の社宅に住む友人が新しく家を建てて住み移るのをとてもうらやましく感じていたものです。社 宅とその周りの一般住宅との差はひらく一方で、社宅の住人=貧乏人と思われていると思っていました。炭鉱の陰りと共に、社 宅も空き家が多くなっていきました。そうなってくると、やはり犯罪の温床となっていき、少年少女達が空き家でタバコやシン ナーを吸ったりしていろんなトラブルが発生していきました。周りの住人や三井グリーンランドを中心に観光都市へと転換した い荒尾市にとっては、景観を壊す社宅の存在は「悪」となっていきました。こうなると、地元に住む人間にとっては、はやく取 り壊して欲しいとなっていきます。私自身、それに賛成でした。私にとって社宅はあまりいい思い出ではないからです。社宅の 跡地にいろいろ建てれば不況で沈みがちな荒尾も活性化するのではとも考えました。そして、現在、実際にそうなりました。便 利なった。きれいになった。表面的には活性化した。しかし、良くも悪くも私の中に存在する、あのころの風景はひとかけらも 無い。正直言って複雑です。あれだけ嫌っていた社宅なのに、全て無くなってしまえば今度は、何軒かは残って無いかと探して いる自分があり、「勝手なものだ」と自分自身に憤慨しました。
 この複雑な気持ち、これが私の今の正直なところです。(福岡県 男性)

 


私の父は三井三池炭鉱の四ツ山坑にかつて勤めておりました。
 組合の分裂、三池闘争等、大変な時代を体験してきた父はもう70歳なかば。両親と私と妹二人は大牟田の炭鉱住宅街から荒 尾の朝日区を経て緑ヶ丘の弥生町に住んでおりました。私は47歳になりました。35歳で結婚しその年に18年ぶりに、かつ て住んでいた弥生町26棟の家へ行くことができました。もうすべてのものが懐かしくってなつかしくって心の動揺を押さえる ことができなくって、涙がこみあげてきてしょうがありませんでした。でも思い出のいっぱいつまっていたその家はもうありま せんでした。ただの畑になっていました。できることはただひとつ、家があったはずのその土をしっかりと踏みしめてその感触 を懐かしむことだけでした。そうするうちに、ありました、ありました。確かに見覚えのある台所からの排水用の溝、それから いちじくの木。いくつか見つかってとてもうれしかったことをはっきりといまもドキドキするくらい覚えております。現在、埼 玉県に住んでおります。ドキドキするような写真を拝見させていただき本当になつかしさでいっぱいです。(埼玉県 男性)


荒尾にいた当時の奥底に眠っている記憶の糸を探っていた一日のような気がします。
 不思議ですね!どうしてこんな気持ちになるのでしょうね。大人になってその後の年月の方がずーっとずーっと長いはずなの ですが。何かすごく大事な宝物でも幼い時代をすごしたあの懐かしいところに置き忘れてしまったかのようです。私の心は大人 になってからでは手に入れることのできないなにかを、もう一度つかみたいと願っているのかもしれないですね。私の父は坑道 にもぐって仕事をしていたときに落盤にあって頭を打って治療していた時期がありました。炭鉱電車の運転をしていたこともあ ったようです。私が中学生のときこたつに入っていましたら何か遠くの方でドーンという音がきこえたことを覚えています。そ れが、460人でしたか480人でしたか大勢の方がなくなった炭塵爆発でした。中学校の私のクラスも何人かの友達が父親を そのときに亡くしました。父も救助の手伝いに行きました。(埼玉県 男性)

 


私は、18歳で東京に出て、東京大学、同大学院で11年間教育学を学び、今春から東京 経済大学にて専任講師として勤めております。
 大学では、専門は教育学ですが、日本の近現代史のゼミも開講しており、戦後史について学んでいます。そこで、三池争議に ついて今週学ぶ予定でしたので、インターネットで検索していたところ、前川さんのページに遭遇したというわけです。解雇さ れる人のために、解雇されない人も闘った三池の闘いの中から、日本における過去の共同性の姿を学びたいと考えています。特 に、今の学生にとって、三池争議なんて、ほとんど知らないことですから、あのような出来事があったのだということを知るだ けでも意義のあることではないかと思います。(東京都 男性)


荒尾のそれも緑ヶ丘の写真なつかしく拝見しました。
 私も(昭和26年生)で小学校3年〜6年の間社宅(小鳩町)に住んでいました。社宅の仲間たちと野原で遊んだこと、ケン ダマを競ったこと(ケンダマは今でもできます)、共同浴場のこといろいろ思い出してきます。荒尾には高校生の時までいて、 いま下関に在住しています。どうもなつかしい写真ありがとうございました。(山口県 男性)

 


この三池炭坑の出来事を知っている現在の若者は少ないと思います。
 同窓会などで会う度に友人達は、自分が退職したら故郷に帰ると話していますが、両親はその間も年老いていきます。私も実 家を建て直し嫁と子供を実家に帰す予定をしています。やはり、ふるさとは必要です。滋賀で生まれ滋賀で仕事が出来る自分が 幸せだと思います。ふるさとに帰りたくても帰れない・・・もうふるさとはない・・そういう人達もいる中で、私もふるさとを 大切にしたいとあらためて思いました。あと、何年もしたら三池の労働争議も過去の話として消えてしまうでしょう?そうなら ないためにも、このページは貴重な存在だと感じました。がんばってください。
(滋賀県 男性)


さっそく新しくなったホームページ見ました。感激しております。
 前川さんが荒尾へ帰られて撮ってこられた今の緑ヶ丘・・・。本当に変わってしまいましたね。でも、所々に点々と周りが消え ていくなかで、弱々しく見えてても、しっかりと昔のことを私たちに話し掛けてくれる懐かしい友人だったかのような、道、階段、 そして乗ってくれる者もいないブランコ。故里は、昔のことほど、そして遠く離れていればいるほど、心にしっかりと語り掛けて くれるような気がします。何度、見直しても見飽きないくらいです。ありがとうございました。
(埼玉県 男性)

 


この歳になって住みはじめた村は雰囲気は九州のそれと似通っていても、心の第二の故 郷になるのは困難なようです。そんな中、久しぶりに愛知県の父から電話がありました。三池闘争時代のいろんな出来事や、つらか ったこと、悲しかったこと、めずらしくたくさんの思いを語ってくれました。それは、父が受話器の向こうで涙ぐんでいるのがわか りました。父は、私ら子供たちには思いも及ばないつらい多くの体験をしていたのですね。それは、前川さんのお父さんも同じこと だったのではないでしょうか。昔、私の家族が炭鉱を離れ、愛知県に引っ越してきて、就職先を父が探すときには三池労組の第一組 合員であったということは隠さなければならなかったそうです。もしそういうことが会社に分かるとそのことだけで採用にはならな かったと、そんなことも話してくれました。前川さんのお父さんが炭鉱に勤めていたことを言わないようにされていたことは、そう いう理由もあったのではないでしょうか。父が、三池闘争時代に生きたおまえたちもまたその影響を受けていて、お前の性格までも がそうなったと言いました。私自身はそんなこと思ってもみなかったのですが、そう言われてみると、否定することもまた出来ませ んでした。そう言われればそうかもしれないなあと思ったりもするのです。不思議なものですね。(埼玉県 男性)


同じ時、同じ空間を共有された方たちにはとても懐かしくそして寂しく・・・。私たち には貴重な記録として今後も大切なライブラリーとして掲載を続けて頂きたいとつくづく思いました。(大阪府)

 


前川さんの思いがページから強烈に伝わってきます。前川さんをはじめ、荒尾や大牟田出 身の方々にとっては、それらの景色ひとつひとつが遠く離れた故郷の情景であり心の拠り所なんでしょうね。私はこの土地の生まれ ではないので、ある意味では傍観者の要素を多分に持っていますが、ふるさとを遠く離れた方々の熱い思いには圧倒されっぱなしです。 私の田舎は筑後川と耳納連山にはさまれた植木と柿の産地です。車で1時間もかからないところですが、それでも、やはり子供のころ に見た景色を自分の子供に見せたくて盆と正月には小学校の裏山に連れて行きます。年とともに古里が懐かしく思えるようになるもの でしょうか。(福岡県 男性)


私の父も以前炭鉱夫でした。北海道の夕張炭鉱のなかの小さな炭鉱です。
 私が12歳のときに閉山になり部落の人たち全員、静岡県や千葉県などに引っ越してしまいました。あなたのように私も結婚し 主人や子ども達と24年ぶりに北海道の炭鉱跡を訪ねてみました。そして、故郷は昔のままではありませんでしたが、私も炭鉱関 係のホームページを作ってみようと思いました。
 (1997.12.6 愛知県 女性)

 


ずっと以前、何かの写真で、ボタ山のてっぺんから遠くを見つめている少年の姿を見た ことがあります。母親の帰りを待っているのだろうか?炭坑を出て大都会の生活を夢見ているのだろうか?いろんな事を想像しまし た。でも、少年の視線が水平線よりやや上を見ていたことから、何か希望を感じさせる風景でした。
 私の故郷(丹波)の家のすぐ後ろに小高い山があって、その山のてっぺんに大きな大きな松の木がありました。私は少年の頃、よ くその木に登って遠くを眺めたものでした。でもその時、自分は何を考えていたか、今ではもう思い出せません。さいわい私の故 郷はそう遠くはなく、年に一度や二度は帰ります。でも広い道が出来、工業団地が出来、そしてあの松の木も今は有りません。子 供の頃の写真の背景の中にしか私の故郷は無いように思います。もし前川さんの故郷に、昔のままの風景が今でも有るとしたら、 それは何物にも代え難い宝物だと思います。その風景こそが先祖を想い、友達を想い、そして自分を我に返らせることの出来る唯 一の場所なのです。キャンペーンが実ることを心からお祈り致します。
(1998.2.19 京都府)


きょう、私の生まれ故郷の荒尾を思い出し思わずinternetで検索いたしました。  貴殿の貴重な写真等を拝見し懐かしく、望郷の念にかられました。私も、緑ヶ丘小学校の卒業生の一人で、地元高校卒業、東京 の大学卒業と共に東京生活20年経ってしまいました・・・。でも、今でも荒尾のことが忘れられず日々帰りたい気持ちでいっぱ いです。今日は、懐かしい写真等拝見出来ありがとうございました。
(1998.2.25 東京都)

 


人が生きてきた場所。それが無くなってしまうということは、そこに生きてきた人々の 歴史も無くなってしまうようで、とても寂しい事です。応援してますので頑張って下さい。(1998.3.12 愛知県 女性)


故郷にいた時間よりもこちらへ来てからの方がずっと長いはずのあなたや私にとって、それでも故 郷は一生忘れることは無いでしょう。それは、鮭が故郷の川に帰ってくるように、ツバメがまた同じ巣に明くる年も帰ってくるよう に、幼い頃の記憶が脳味噌の一番大切な部分にインプットされているからなのでしょう。お袋の味も同じだと思います。女房といた 時間の方がお袋といた時間よりもずっと長いのに、それでも今でもお袋の味は世界一です!
 (1998.3.23 京都府)

 


三池炭鉱施設の重要文化財指定、とてもうれしいニュースです。故郷のしるし、前川さん のお父さんたちの足跡が捨て去られずに、刻まれること、何よりのよろこびです。(1998.3.25 東京都 男性)


炭鉱住宅の写真、大変懐かしく拝見いたしました。
 私も荒尾を出てすでに18年。と言っても熊本在住です。私は昭和36年の生まれなので三池争議は直接には知りません。また、 炭鉱関係者でもありません。しかし、荒尾三中では緑ヶ丘小学校出身の友人達がいましたので、社宅にはよく遊びに行きました。 炭鉱電車にも乗りました。私が熊本に移った頃から炭鉱住宅の解体が始まりました。私の実家は根っからの地元なので、どちらか と言えば炭坑(三井)に土地を奪われた側です。旧小鳩町あたりは元々家の土地だったらしく、ばあさんがボヤいていました。田 舎、特に緑ヶ丘と隣接している平井地区(それも本井手)の年寄があまり炭鉱関係者の事を善く言わなかったのは事実です。土地 を奪われた恨み(一応、金はもらっている)と田舎独特の他所者の対する排他意識からでしょうか。私たちの世代はそんな意識は なかったつもりです(完全否定はできませんが)。しかし今ではそこも住宅分譲地になってしまいました。言いたいこと、書きた いことはたくさんあります。また機会があったらメールを送ります。今後も頑張って下さい。
 (1998.5.21 熊本市 男性)

 


九州の炭鉱を検索していてHPにお邪魔しました。
  私は今42歳です。生まれは北海道の夕張市で,三菱大夕張炭鉱のあった鹿島というところです。私はそこで生まれてから 中学校卒業までの15年間を過ごしました。私にとって少年時代を過ごしたふるさとですが,その大夕張とよばれた地域も,昭 和48年に閉山,過疎,そして新たにできるダムの底に沈もうとしています。若い頃は自分のふるさとを振り返ることもなかっ たのですが,自分自身が当時の親の年代になり,そしてふるさと喪失という現実の前に,消え行くふるさとにいとおしさを感じ てなりません。当時の町の建物,炭鉱住宅,道路,そして,当時の町のほこりっぽい町の空気,匂い,人々の姿,それら一つ一 つが今なつかしく感じます。前川さんのHPを見ていて,そんな一つの時代,炭鉱町にあった雰囲気に対する共通の思いのような ものを感じました。北と南にあの時代,あのような町が確かにあったのですよね。前川さんのHPを見てかつての仲間に出会った ようなうれしさを感じました。(1998.6.10 北海道 男性)


雑草が生えている社宅の跡地も数年すれば竹が生え、木が延び、かつて、そこで大勢 の人々の営みがあったことなど想像もできない様子になってしまいます。大牟田と荒尾の町は、石炭が発見される前の静かな田舎 にもどるのでしょうか。それがいいのかもしれません。 (1998.7.18 福岡県 男性)

 


炭鉱の写真をみて、私の父が話していたことをひとつ思い出しました。他の人にもぜ ひ知っていただきたい話です。
 三川坑の炭塵爆発があってたくさんの方が亡くなられた時、父も事故に遭われた方の社宅に弔問に回ったそうです。その時期 ちょうど父は緑ヶ丘小学校のPTA会長だったそうで小学校の当時の校長と若葉町を尋ねて大変驚いたそうです。それは二軒に 一軒は花が飾られていてそれはもう悲惨な様子だったということです。きっと遠目に若葉町を眺めた時、たくさんの花輪が目に 入ったのでしょうね。若葉町には三川坑で働いていた家族が多かったとの話を私にしてくれました。(1998.8.22 埼玉県 男性)


はじめまして!!ホームページをみて大変感動しました。
 私は今は福岡県に住んでいます。父は55歳の定年を三井三池 三川坑で迎え、もう70歳になりますが、今でも元気で大牟田 市に住んでいます。私の故郷は荒尾市緑が丘楓町の社宅です。そう、前川さんの若葉町の石崖の上の楓町です。緑ヶ丘小学校、 荒尾第三中学校、荒尾高校卒業まで緑が丘楓町の社宅に住んでいました。春日市と荒尾の距離は近いのですが年に2〜3回しか 戻っていません。今では、楓町はあらおシティモールの駐車場のコンクリートの下で思い出と共に深く沈んでしまいました。従業 員専用駐車場の隅に、朽ち果てかけたブランコが2台並んでいた写真は、おそらく楓町の東側にあった広場のブランコだと思いま す。この広場は、夏休みのラジオ体操、ドッジボール、缶けりなど夕方遅くまで、子ども達の大きな声が聞こえる場所でした。社 宅の浴場前のたばこ屋のおばさんは元気なのですか!?よく風呂の帰りにコヒー牛乳を飲みました。書きたいことはもっと沢山あ りますが、今日のところはここで。本当にありがとうございました。(1998.9.13 福岡県)

 


はじめまして、大阪在住の者です。
 半年前にこのホームページを見つけてからもう何回訪れたことでしょうか。家族のものが寝静まった深夜、一人このホームペー ジを見てはふるさと大牟田で過ごした子供時代を懐かしく思い出しております。このページを初めて見たときは涙が次から次から 溢れてきて止まりませんでした。ただのなつかしさだけではないいろんな思いがわいてくるのです。それは三池争議で解雇された 人、炭塵爆発で亡くなった多くの人、家族のために長年坑内で働いてくれた父のこと等が思い出されるからかもしれません。私の 父は宮浦坑に勤めていて勝立に住んでいました。もうそのふるさともずいぶん形をかえてしまい、昔の面影はありません。馬渡に はショッピンクセンターがたち、宮前社宅を上に登っていくと帝京短大、紅葉が丘、通松社宅の下の所には市営住宅が建っていま す。でも私の心の中にあるふるさとは前川さんのホームぺージにあるような写真、思いと同じなのです。私の父は55歳で宮浦坑 を退職後、そのまま大牟田におり、58歳でくも膜下出血で倒れてから一ヶ月の入院で亡くなりました。父は生前、「炭坑に勤め ているもんは長生きせんばい、そやけん厚生年金も早よもらわるっと」といっておりましたがそのとおりになってしまいました。 三池争議のころは小学5,6年生で、指名解雇の配達が行われる日はみな近所外にでて固唾を飲んで見ていたように思います。隣 組の中で2軒の家に解雇通告がきました。爆発の日は小学生の弟の遠足の日で、そろそろ帰ってくるので迎えに行こうとしている とき爆発音が聞こえ窓ガラスが揺れたのを覚えています。その時は何だろうと思ったぐらいでしたが、その夜は一晩中社宅のマイ クから「……卸し、○名全滅」の放送が流れていました。ですから今でも11月9日近くなると思い出すことがあります。このホ ームページを見せていただき本当にありがとうございました。
 (1998.9.25 大阪府 女性)


はじめまして。
 実は、私は三池争議の直後に大牟田に引っ越し、あの忌まわしい炭塵爆発事故の直前に、千葉県に引っ越しました。小学校2年 〜5年までを過ごしたのです。大牟田市立三川小学校で隣同士に三里小学校がありました。四山の町は買い物の町でした。私の人 格形成に多大の影響を及ぼしたのが、大牟田の町、そして、荒尾の町でした。住まいは、大牟田市でしたが、あと100mで荒尾 市という県境、鹿児島本線のすぐわきに住んでいました。HP見ました。いやあ、懐かしかったなあ!! 荒尾市電、当時の切符 を持っています。荒尾駅の裏から出ていましたね。友達と自転車に乗ってよく電車を見に行ったものです。三池鉄道の写真、現役 時代のものを所持しています。当時NHK福岡でやっていた<九州こどもホール>という番組に出演し、写真で大牟田の町を撮影 して紹介する番組に出たのです。その時の写真が、我が家の天井裏に仕舞ってあると思うのですが・・・。バッテリー駆動の電気 機関車(機関車の次位に蓄電池車をつないで、架線のない線路も走行していた)を、東洋高圧(今の三井化学?)の専用線で撮影 した記憶があります。今年の元旦、実は2時間だけ大牟田に行きました。30数年?ぶりでした。成田空港から福岡へ、そこから 鹿児島本線で大牟田へ。三池鉄道の廃線跡は、「つわものどもが・・・」の感がありました。
 (1998.11.17 千葉県 男性)

 


私は、直方の新入炭坑、水巻の日炭高松、宮田町の貝島炭鉱などを転々として育った。
 酒飲んだくれ、怒号、共同風呂、共同便所、配給所、土埃、炭塵、貧困、下品な大人たち等々、小さい頃はいやでいやで仕方が なかった。唯一の望みはとりあえず勉強して抜け出すこと。自分で稼いで、なんとか、国立の有名大学を卒業した。大きな化学会 社に就職した。ようやく炭坑から抜け出せたと思ったら、最初に配属されたのが大牟田の工場の総務部であった。寮のすぐ裏には、 三井天領病院があった。毎日リハビリに励むCO中毒(炭塵爆発による)の人達が見えた。三井の町大牟田が筑豊の炭鉱町よりい ろんな面で恵まれていることを知った。その後、東京本社の勤務となったが、7年後に転職、以後ずっと東京暮らしが続いている。
 50もちかくになり、思い出すのは、白黒イメージの炭坑のことばかり、葦書房の「筑豊シリーズ」を買い込み穴の空くほど眺 めている。昨年、25年ぶりに宮田町を訪れた。私の卒業した中学校は閉鎖されていた。ただ石碑がのこされていただけであった。 炭住は跡形もなく消え去っていた。東洋一を誇った立坑も消えていた。中学校の隣にあった小学校も閉鎖され、いまは石炭記念館 となっていた。懐かしい写真、キャップランプ、炭鉱の道具…。とめどもなく涙がとまらなかった。今年は、夕張にも行ってみた。 懐かしい山と石炭の臭いがした。あれほど嫌いで仕方がなかった炭坑が、どうしてこんなにも懐かしく、そして叶うことならもう 一度よみがえって欲しいと思うのは何故?
 前川さん、懐かしい写真をありがとう。このページがいつまでも続くことを願っています。炭鉱を愛する人たちが、こんなにも 多いことに感動しました。みなさんと集まっていろんな話がしたいですね!
 (1998.11.27 東京都 男性)


私は小学4年に緑ヶ丘小に転入してきました。もちろん中学は第三中です。引っ越した先が、なんと若葉町でした。ホームページ見させて頂きました。
 なんだか、涙が出るくらい懐かしくなりました。写真、わたしも撮りたかったです。炭坑で持っていた町ですから今は誰がどう しているのやらーです。銭湯は9時までで走りこんで行ってましたし、面倒で家の庭で行水したりしました。タバコ屋で駄菓子を 買ってブランコで揺られながら大きくなったら何になるなど友達とおしゃべりしましたよ!緑ヶ丘小は、すり鉢型の運動場でした ね。たしか組合が新労と旧労があり子供どうしもそれを言い合い、ケンカや決闘までありました。どちらにつくのかと言われ、炭 坑の仕事をしていても一応家が自営だったわたしは、どちらともつかず運動場の上の叢の影からそっと見物したことを覚えていま す。中学は平井小の子達と一緒になりますが、これまた、緑ヶ丘の子は家無し子(社宅なので)と言われ、お返しに、平井の子は 百姓の子と言いあっていました。今だと PTAで問題になるのでしょうが、昔の子はタフでした。今年、もう少し暖かくなったら私 も行ってみたいと思います。(1999.1.21 長崎県 女性)

 


私は18歳で荒尾を離れ、その18年後に一度だけ新婚旅行をかねて玉名の親戚をたず ね、そのときに荒尾に数時間だけ立ち寄ることができとても懐かしさと寂しさで胸がいっぱいになったことをいまも鮮明に想い出 します。それ以来、ずーと故郷には帰れないのですが、前川さんのHPを何度も見させていただいて荒尾に帰ったことがあるよう な、そんな気がしています。(1999.1.26 埼玉県)


三池、懐かしく見ていました。私も炭坑夫の息子です。その父、5年前この世旅立ち、 母も親父のあとを追うようにしてたびだちました。私いた炭抗は北九州市あった日本炭鉱です。そうして、父も三池争議にもオル グに参加三川坑業所のまえのピケにいました。家から出ていくとき、無事に帰ってこれんかもしれんばい、といっていきました。 NHKの番組見ていたら、坑業所まえの場面で親父の姿がありました。三池閉山の日大牟田へ行きました。うちの親父きたところ、 初めてきたのに何か懐かしく思いました。感傷に浸るわけではないけれど。なにかつたない文章ですけど、思いつくままに書きま した。
 (1999.2.12 宮崎県 男性)

 


三池の記事大変懐かしく,見て懐かしくというよりも,心の支えです。感想よりも, 炭坑があったということです,三池,私のいた炭坑,親父,急死に一生得たという,ことがありました,落盤事故,あったばい。 私の,母の乱れよう,いつも,金のことで喧嘩,三池も日炭も炭坑マンの息子,坊主,今から仕事に行ってくるばい,と行って, 家を出て行った,隣のおじさん。そしてその日,ガス爆発あったとですばい,白木のかんおけ,が社宅の中から,五つ,六つ, も出て,今,前川さんの,HPを見ていたら,むしょうに,若松に帰りたかです。(1999.4.11 宮崎県 男性)


荒尾,大牟田,炭坑,施設ば,取り壊せちな,身勝手なもんたい。全部が全部,やげな,私の里に はなーにもありまっせん。泣きの涙でふるさと筑豊,でていったのに,5,6前には,わずかばかり,あったのに,うちの叔父, 叔母,いとこが・・・炭坑施設中には,親父.兄弟が,坑内に埋もれたままに,帰還してない人がいるのに,最低限の我々の,生 きていた,証,暮らしていた,ことをイメージ暗い,なんばいいっとか。そのおかげ,で大牟田,荒尾,過去発展したとだろうが, ご苦労さまと,言って,大事にしてくれてもいいがね。戦後の日本の発展を支えてきた。炭坑いまでん,かえっこいと,言うなら, 帰っていくばい。でも,よう言うたもんたい,ふるさとは,遠くにあり思うもの。怒られっかもしれんばってん、地元の人にはわ からん,とじゃろかい。とっても,大事な物というこつが。
 (1999.4.26 宮崎県 男性)

 


私の故郷、山口県宇部市というところです。
 ここも戦前戦後と炭坑で栄えた街です。小学生の頃には社宅というところから通ってるトモダチもいてその子の家に一度お泊ま りにいったことがあるのですが木造の同じ形の長屋がたっくさんあって、そのまんなかあたりにその社宅の人みんなが入るお風呂 がありました。銭湯でも温泉でもないのにみんなが入るお風呂というのが不思議だったのを思い出しました。新聞のつたのからま った炭住あとの写真をみるとあの時泊めてもらったトモダチの家にそっくりで驚きました。その社宅はもう17年くらい前にとり こわされ、やっぱり後に公営住宅かなにか建ったと思います。これからも懐かしむだけでなく、現代に呼びかけるページとして前 川さんのページが私たちのように何も知らない者にとって驚き、考え、学べる場でありますよう、応援&頼りにしています。
 (1999.5.11 山口県宇部市 アリシスさん)


新聞記事をじっくり読ませていて頂きました。とても感激しました。たとえ当時の仲間たちがつ ぎつぎと散っていっても、記念碑とも言える住宅跡に帰ってくれば、苦労の思い出と隣り合わせに懐かしさを蘇らせる事が出来た のに・・・・・。でも、その記念碑は前川さんのHPにいつまでも残ります。
 (1999.5.15 京都府)

 


ご自分の故郷を調べ、実際に行き写真を取り、それはそれは大変な努力を要することです。その テーマが自分自身のことだけではなく、共通のそして過去に日本を支えたエネルギーの源:炭坑の歴史ですから関心を持つ方も多 いことでしょう。私も自分のルーツをそろそろ調べてみたいものだと思っております。私のでどころは四国の西条です。このよう な気持ちを目覚めさせていただいた前川さんに感謝いたします。
 (1999.5.20 兵庫県)


私も荒尾第2小学校〜大牟田船津中学校〜大牟田南高校を経てきた昭和27年生まれの オヤジです。父は四山鉱で採炭夫でした。現在私は福岡市で歯科医院を開業しております。私の小学生時代に三池争議があり、子 供同士が各組合に分かれて遊んだ、そんな記憶があります。そんなこんなを思い出されて、このページを見ていくと本当に涙が止 まりません。冒頭に述べてあるように、もう私たちの町は消えてしまったのです。妻を数年前に我が四山社宅に連れていきました が、やはりあそこに住んだことのない者にとっては、何も思い浮かばないようでした。
 よくぞこんなホームページを作って下さいました。ありがとう!ありがとう!町は消えても、このページは守り続けて下さい。 お願いいたします。最後にもうひとつありがとう!!(1999.6.9 福岡市 男性)

 


「炭掘る仲間」をこうした形で聴くのは初めてなのですが、とても心にしみいる心持です。当時の 緊迫感の様子をそのリズムの歯切れ良さのなかに秘めながらもゆったりと流れる懐かしいメロディーは聞くものの心にそっとやさ しく響いてきます。この編曲はこれを創った方の思いやり、優しさと懐かしさがこめられているように聞こえてきます。それはあ たかもつらい苦しい時代が、終わり、もう苦しむことはない、悩むことはもはやなくなった、みんなごくろうさま!、おつかれさ ま!と語りかけてくれているように感じます。三池闘争で戦ったみんなに「ありがとう、おつかれさま!」とお礼を言いたい想い が湧き上がってくるようなとてもすばらしい曲です。先日、久しぶりに愛知の父から電話があり、少し話をすることができ、前川 さんのHPに父の写真が載っていることや、新聞にこのHPの紹介が載ったことなどを話すと、とても喜んでいるようすでした。 私達、三池闘争で戦った親達のその子供達が三池のことに関心をもち、それを次世代に伝えてくれようとしていることが、とても うれしいらしいのです。きっと前川さんのお父さんがもしまだ生きていらっしゃって、この三池のHPのことを知られたら私の父 とおなじことをおっしゃられたでしょうね。
(1999.7.2 埼玉県 男性)


はじめまして!  昭和29年生まれで、父は炭坑マン(77歳で健在)でした。中学3年生まれで、勝立の朝日ヶ丘社宅に住んでいました。写真 の中の1枚で、月見が丘共同浴場は、私の家族がいつもお世話になっていた浴場で、とても懐かしい思いで拝見しました。私も、 勝立に住んでいた頃通っていた学校やよく行っていた場所等が今どう変っているか確かめ写真を撮ったり、図書館へ行き当時の資 料などで興味のある事を調べたいと思っています。炭坑関係のホ−ムペ−ジ作りで何かお手伝いできることがあればメ−ルして下 さい。(1999.7.10 大牟田市 Kei)

 


私は熊本県荒尾市に住む29歳の会社員です。
 自宅でネットをしていて、偶然そちらのページを見付けてしまいました。うちは大牟田との県境で、子供の頃は、万田社宅の中 にある売店で買い物をしたりしたことを思い出し、ついメールを書きたくなった次第です。荒尾の町も随分変わり、子供の頃、ざ りがにをとったどぶ川がなくなったり、社宅だった場所にマンションが建ったりで、さみしく感じたりします。私は20歳過ぎく らいから仕事で東京へ行き、3年程前に荒尾へ帰ってきました。東京にいる時でさえもあまり荒尾に郷愁を感じた事のなかった私 ですが、あなたのHPを見てなんだか感激してしまいました。がんばってください。(1999.9.15 荒尾市 女性)


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