故郷に寄せる熱きメッセージ その2 ![]() |
●始めまして。このところ、桜の頃には毎年帰っているくせに、もう、次の大牟田行きを思っている。
行くたびに、滞在の日数が増えていく。貧乏旅行の悩みは市内での適宜な宿泊先。手に入れたばかりのコンピューターで、何よりも
まず "大牟田,宿”と検索入力してみる。(インターネットに,我が故郷、大牟田についての記事が載っているとは、殆ど、予想
する事なく)大牟田がでてきた、三井三池がでてきた。そして、前川さんに、”故郷へのメッセージ”、そして、郷土キャンペーン
に出会い、殆ど呆然としてしまう。今までの私は何だったのだろう。このところ、殆ど毎年訪れては、大牟田、荒尾の町を、走り回
り,そして佇み、時には、ひそかに、泣き笑いしながら。そんな人は私だけではなかったんだ。又、あの大牟田を、どうにか風化させ
ない方法はないものだろうか、と、ひとーりで、それこそ、ひとーりで、悶々と考え、悩んできた私は何だったのだろう。なーんだ。
私だけじゃなかったんだ。よかった。よかった。 |
●前川さん、はじめまして。 |
●はじめまして。偶然,貴方のHPを見つけ,突然,お便りいたしました。 |
●アメリカよりEメールしております。私ども夫婦はあなたと同じ荒尾出身です。
家内のヒロコです。緑が丘小学校に4年までいました。父は中国から引き揚げ後、三池炭鉱の三川鉱に行っていました。その
父もけい肺にかかって入院10年の闘病後亡くなりました。子供の頃の10年はとっても色々な思い出があります。校庭の赤粘
土、高台から見られる運動会、あの散髪屋、プールのようだった社宅の風呂屋など、一つ一つが鮮明に浮かんできました。7年
前には子供達から幽霊屋敷と名付けられた社宅の家が、この夏には本当にパーキング場等になっていてびっくり!うれしいよう
な悲しいような複雑な思いでした。もう故郷がなくなっていたと思っていたところにあなたのHPが目に飛び込んできて本当に
うれしかったです。遠くにいるから、また、年と共に故郷が恋しくなるのでしょうか? |
●全く面識が無いのに、しかも突然に手紙を届けることに迷いはありましたけれども、
失礼を省みずに嬉しさ故にペンを走らせています。知人からの手紙を頂いたなかに、貴方様が三池のビデオを購入されたこと、
しかもその理由にとても感動するものがありまして、私もいささか関係する過去がありますだけに、矢も楯もたまらずの手紙と
なりました。申し遅れましたが私は71歳、根っからの三池炭鉱マンで宮浦支部にいた者です。 |
●4年ほど前に、友人のお婆さんの家に行ったのですが、飯塚市だったか、直方市だ ったか、忘れてしまいましたが、タクシーの窓から見た黒い山と、広い土地と言うのでしょうか、初めて、九州に行った私に は分からず、結局友人にも聞けず帰ってからも、気になっていたので、少し調べてみてあれは、炭坑だったのかなと・・。ず っと気になりつつ、図書館でも、あまり写真が掲載されている本がなく、わからないまま今日に至ります。なんとなくと言え ば失礼ですが、‘ある時代‘を生きた人に興味があり、今回ホームページを拝見させていただきました。もう、福岡の方へも 行く機会がないので、もっとしっかり見ておくのだったと、少し残念です。(2000年2月1日 女性) |
●パソコンを買ったばかりでアレコレ遊んでいました。アナログ人間の私には別の世 界のことの様でしたが、こんなすばらしい出合いも与えてくれるのですね。私も荒尾が故郷です。志賀町に住みシンガーソング ライターをしています。熊本弁で作った『生きたらよか』や『ARAO』なども作り、炭坑の閉山のときは荒尾で『がんばろう』も 皆でうたいました。荒木栄さんのことも聞きました。荒尾は、炭坑抜きには語れません。時は移り、思いでは日々遠くなってい きますが、いつかお会いして故郷のことでも語り合えたら嬉しいです。あなたの故郷を思う熱い想いが、縁を結び付けてくれま した。感謝致します。どうもありがとうございました。(2000年2月18日 滋賀県 関島秀樹さん) |
●はじめまして。最近、池島炭坑で坑内火災が発生したと報道されていたので、大変
気になりネットサーフィンをしていたら思わぬところに池島の紹介があり、拝見させていただきました。郷里と申しましても、
父が定年退職して以来15年以上足を運んでおらず、懐かしさと、へぇ変わってると感じ入った次第です。大変懐かしく拝見さ
せていただきました。我が郷里を取り上げていただき誠に有り難うございました。 |
●荒尾出身の貴殿へ。 |
●私は約7年半、三池炭鉱に勤めておりました。 |
●私も大牟田の出身です。四山社宅に住んでおりました。故郷を離れて早30年になり
ました。こうして大牟田出身の方と御話し出来て大変嬉しいです。これから時々御話しましょう。今、父と母の介護をしており
ます。三池の写真を見せました。大変喜んでおりました。大牟田のホームページなどよくみております。インターネットはすご
い。では又。 |
●皆さんの写真拝見いたしましたが、こんなにも社宅がたくさんあったのかとびっくり
いたしました。そして、どんなに温かい人々に囲まれて自分が育ったのかを改めて知ることが出来ました。本当の人の和がそこに
ありました。・・・父は九州を去る際、「自分は最後まで第一組合で通した事に誇りを持っている」と申しました。その父も定
年前に退職しました。やはり事故が怖かったのだと思います。いつだったか四山病院にたまたま行ってた時、落盤があり、数
人の人が運ばれて来ました。目から耳から血が出てました。よくある事だと父が申しておりました。そんな色々な人々の思い
も今は草むらになってしまいました・・。 |
●僕は今、生まれ故郷荒尾を離れて暮らしています。拝見してたらすごく懐かしく思え ました。じいちゃんと伯父が、炭坑マンでした。親も前は、小浜社宅や緑が丘社宅に住んでたみたいです。従兄弟が、以前原 万田の社宅にいたので泊まりにいったのを覚えてます。今は有明プラザになってる場所にあった浴場にも行ったことがありま す。すごく懐かしかったのは、幼稚園くらいの時乗った三池鉄道緑ケ丘線。緑ケ丘駅から原万田駅まで乗ったのを覚えてます。 あのころ、炭坑電車の運転主になりたかった僕は、あの、運転士さんの笑顔が忘れられません。小学校低学年の時、炭坑のや ぐらを見たいと、泣いてた時もありました。お父さんに万田抗のやぐらのそばまで連れてもらったを覚えてます。すごく、懐 かしい荒尾と大牟田。今はあまり帰りません。今、すごく帰りたくなりました。まだ、あの三池鉄道の場所歩けるのでしょう か。今度歩いてみたい。週末帰ろうかな。びっくりするだろうな、親が。(2000年5月24日 23歳の男性) |
●net大牟田・荒尾がんばろう会のホームページを懐かしく拝見しました。また、
「炭掘る仲間」の歌も流れ、うれしくなりました。私は昭和24年荒尾市生まれ、20歳まで荒尾に住んでいました。小学校
6年生のとき、三池争議があり、中学3年生の秋、炭塵爆発に出合いました。大学に進学後、新聞社に入り、主として関西、
関東で仕事をしてきましたが、三井三池のことは私の記者活動のひとつの原点になっています。まだ、母が荒尾の駅前に住ん
でいます。(確か、関島さんは弟と玉名高校の同級生でしたね) |
●インターネットで「みいけ」を語ってくれることに心より感謝し拍手を送ります。 |
●毎日新聞の朝の百葉箱をみなかったらこのホームページに出会わなかったでしょう。嬉しいで
す。三池を思っているいる人がこんなにたくさんいて。 |
●はじめまして、前川さん。 |
●前川様、いろいろありがとうございます!!! |
●私は三池CO被災者の子どもです。知人からnet大牟田・荒尾会のことを聞き、インターネットを
再開しました。見ていたら前川さんのふるさとへの思いが伝わってきてつい涙が出てしまいました。それは私は10年前に母が
心臓病で倒れたのでUターンしてきたのですが、その後荒尾市議会の議員になることになって、閉山当時社宅を残せなかったこ
とが申し訳なくそのことも涙の原因ですが。そのころ万田炭坑の保存を訴えて議会でも発言してきましたが、炭坑社宅について
は発言はしたものの強いものになっていなかったからです。文化財などを専門になさっている先生との話でぜひ社宅も形を残せ
たらいいねという話はしていたものの、万田坑保存そのものが荒尾市は財政力がないものですからとてもきびしくて、やっと保
存が決まったもののお金はどうするという状態だったのです。ご理解下さい。またお便りします。 |
●昨年の夏ごろ東京の新宿サザンシアターにて「がんばろう」と言う作品を見ました。
私は今まで労働運動というものをあまり知らず生きてきた世代なのでがんばろうという言葉を聞いても何も感じなかったのが正直
なところです。でもこの作品を見て何がか分かりませんが一生懸命生きていこうという気持ちと同時に、こういう時にがんばろう
という言葉を使うんだなあと知りました。 |
●会社のパソコンで、偶然にこのホームページと出会いました。嬉しく、懐かしく、もの悲しく・・・前川さん、有難うございます。 |
●私は現在、昭和7年生まれの68歳。 |
●初めてお便りいたします、私は大牟田出身で50歳になります。現在神奈川県に住ん
でおりますが、最近ホームページでこのことを知り感動しました。 |
●昭和38年11月9日の三川坑の落盤事故について少しだけ書きます。 |
●前川さん、万田公園の桜が満開です。 |
●私は昭和27年生まれです。 |
●私は第3中学校の昭和37年度の卒業生です。桂町に住んでいました。 |
●はじめまして。私は四山で生まれその後すぐ勝立(馬渡社宅)に移り父が亡くなって歴木に住んでおりました。 |
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