故郷に寄せる熱きメッセージ その2


始めまして。このところ、桜の頃には毎年帰っているくせに、もう、次の大牟田行きを思っている。 行くたびに、滞在の日数が増えていく。貧乏旅行の悩みは市内での適宜な宿泊先。手に入れたばかりのコンピューターで、何よりも まず "大牟田,宿”と検索入力してみる。(インターネットに,我が故郷、大牟田についての記事が載っているとは、殆ど、予想 する事なく)大牟田がでてきた、三井三池がでてきた。そして、前川さんに、”故郷へのメッセージ”、そして、郷土キャンペーン に出会い、殆ど呆然としてしまう。今までの私は何だったのだろう。このところ、殆ど毎年訪れては、大牟田、荒尾の町を、走り回 り,そして佇み、時には、ひそかに、泣き笑いしながら。そんな人は私だけではなかったんだ。又、あの大牟田を、どうにか風化させ ない方法はないものだろうか、と、ひとーりで、それこそ、ひとーりで、悶々と考え、悩んできた私は何だったのだろう。なーんだ。 私だけじゃなかったんだ。よかった。よかった。
 私は生まれも、育ちも大牟田市。でも、遊び場の半分は、万田公園、万田山(父に言わせると、”袴岳”(はかまだけ)と言う立 派な本名があるとのこと)でした。又、倉掛から、聖人原行きのパスに乗り,緑が丘の、いとこ達の住む社宅に遊びに行ったもので す。私の家は社宅ではなく、社宅に住もうよ、と、両親に一生懸命、訴えたこと、今でも、良く覚えています。又、Mr.前川の臼 井社宅のお写真にあります、(両脇に見事なくらいに建ち並んでいた社宅、を抜けていた大通り)今は、公園の様に見える、あの広 い通りを抜け、米生中学へ通学した3年間は、本当に昨日の事の様です。野原のようになったこの通りに、故郷へ帰ってくる人々の 為、或いは、三井三池の研究、セミナー等に訪れる学校関係者などなどの為に、お安く(?)貸してさる、”モデル社宅宿”の建設 などアイディアとして如何でしょう!?(最低、10日間ぐらいは滞在したいものです!夢でしょうか)。とりとめなくなりました。 とり急ぎ、今日はこの辺で。何か私にできる事がありましたら、お知らせ下さいませ。
 (1999.10.14 サンフランシスコ在 女性)


前川さん、はじめまして。
 貴ホームページを拝見させていただきました。ありがとうございます。内容を見ていくたびに、もしかして、私と同じ年代ではと思 いました。そのとおり、うちも26年生まればい。ページの最後まで前川さんの顔写真をみなかったので、ページをめくるたびにうち 自身の郷愁などと重ねながら、そして、お便りしたくなりました。親の介護の問題に救われました。と同時に私自身も反省させられる こと多々ありますが、私の夫は船長もしながら親の面倒もみています。今後も、「がまだす介護日記」を楽しみにしております。奥様 にもよろしくお伝え下さい。私たち家族は、香焼〜高島の交通船と軍艦島(端島)周遊の仕事をしております。元々高島の炭鉱の仕事 をしておりましたが、閉山の折に海上タクシーの仕事を始めました。最近、ホームページを開いて私たちの仕事をご案内しております。 最近、あまり聞かれなくなった労働歌、音楽にあわせてパソコンの前で歌いました。「燃え上がる女の拳がある・・・」。少しまえの 人生を思い出して、元気がでてきました。お初なのに長くなりまして、失礼致します。
 (1999.10.11 長崎県 女性)

 


はじめまして。偶然,貴方のHPを見つけ,突然,お便りいたしました。
 私,鹿児島にて中学の教員をやっております。今秋に修学旅行を計画し,その準備で情報収集の途上貴方のHPに行き当たりました。 故郷に馳せる強い思いに深く感動いたしました。そこで,いくつか質問したいことがありましてお手紙致しました。
 私どもの学校では,旅行の最終日に三井グリーンランドを訪れる計画になっています。三井GLの歴史的な背景を調べるのですが, 遊園地建設以前には,そこに何があったのか諸説が入り乱れ混乱している次第です。一説には炭坑のボタ山があった・・・炭坑に働く 人々の住宅があった・・・工場があった等々・・・。少しでも正確な情報を子供達に伝えたいと考えております。単に修学旅行の思い 出つくりに,生徒を「遊ばせる」だけでは忍びない気持ちなのです。
 (1999.10.13  鹿児島県 男性)


アメリカよりEメールしております。私ども夫婦はあなたと同じ荒尾出身です。
 ワイフは緑ケ丘の楓町社宅に10年住んでいました。その間ワイフの父が炭塵によりけい肺にかかり、四国の親戚へと荒尾を 去りました。今回前川さんのHPを隅から隅まで拝見し、感動の涙で一杯でした。私は2年前、ワイフはこの8月帰郷し、緑ケ 丘近辺を探索して参りました。私共夫婦にとっては炭鉱イコールふるさとであり、心のノスタルジーです。このよい思い出を蘇 らせてくださりありがとうございました。渡米して早30年の年月が過ぎました。

 家内のヒロコです。緑が丘小学校に4年までいました。父は中国から引き揚げ後、三池炭鉱の三川鉱に行っていました。その 父もけい肺にかかって入院10年の闘病後亡くなりました。子供の頃の10年はとっても色々な思い出があります。校庭の赤粘 土、高台から見られる運動会、あの散髪屋、プールのようだった社宅の風呂屋など、一つ一つが鮮明に浮かんできました。7年 前には子供達から幽霊屋敷と名付けられた社宅の家が、この夏には本当にパーキング場等になっていてびっくり!うれしいよう な悲しいような複雑な思いでした。もう故郷がなくなっていたと思っていたところにあなたのHPが目に飛び込んできて本当に うれしかったです。遠くにいるから、また、年と共に故郷が恋しくなるのでしょうか?
 (1999年10月19日米国カリフォルニアより)

 


全く面識が無いのに、しかも突然に手紙を届けることに迷いはありましたけれども、 失礼を省みずに嬉しさ故にペンを走らせています。知人からの手紙を頂いたなかに、貴方様が三池のビデオを購入されたこと、 しかもその理由にとても感動するものがありまして、私もいささか関係する過去がありますだけに、矢も楯もたまらずの手紙と なりました。申し遅れましたが私は71歳、根っからの三池炭鉱マンで宮浦支部にいた者です。
 このビデオの原本となったフィルムは私が50年間生活していた大牟田の勝立社宅紅葉ケ丘分会の仲間が1年がかりで自分の8 ミリ映写機で撮った闘争の記録フィルムです。主として宮浦支部とその社宅が中心になっているもの故、多分、前川さんのご 両親の姿はないかも知れません。しかし、前川さんのメールにありました荒尾市の緑ヶ丘の若葉社宅はよく知っています。あ そこには第一組合員でCO患者となられて亡くなられた村上さんがおられたのでよく行き来していたのです。そして、前川さ んのご両親がどんなに苦労されたのか、圧力や誘惑にもめげず、人として生きる道を、また、多くの仲間たちを大事にして立 派に生きてこられたことだけは信じて欲しいと思います。
 人はいつ、どんな出逢いで生涯の友となるやも知れません。どうぞ何なりと気が向きましたらお付き合い下さい。
 (1999年11月7日 横浜市 Fさんからの手紙より)


4年ほど前に、友人のお婆さんの家に行ったのですが、飯塚市だったか、直方市だ ったか、忘れてしまいましたが、タクシーの窓から見た黒い山と、広い土地と言うのでしょうか、初めて、九州に行った私に は分からず、結局友人にも聞けず帰ってからも、気になっていたので、少し調べてみてあれは、炭坑だったのかなと・・。ず っと気になりつつ、図書館でも、あまり写真が掲載されている本がなく、わからないまま今日に至ります。なんとなくと言え ば失礼ですが、‘ある時代‘を生きた人に興味があり、今回ホームページを拝見させていただきました。もう、福岡の方へも 行く機会がないので、もっとしっかり見ておくのだったと、少し残念です。(2000年2月1日 女性)

 


パソコンを買ったばかりでアレコレ遊んでいました。アナログ人間の私には別の世 界のことの様でしたが、こんなすばらしい出合いも与えてくれるのですね。私も荒尾が故郷です。志賀町に住みシンガーソング ライターをしています。熊本弁で作った『生きたらよか』や『ARAO』なども作り、炭坑の閉山のときは荒尾で『がんばろう』も 皆でうたいました。荒木栄さんのことも聞きました。荒尾は、炭坑抜きには語れません。時は移り、思いでは日々遠くなってい きますが、いつかお会いして故郷のことでも語り合えたら嬉しいです。あなたの故郷を思う熱い想いが、縁を結び付けてくれま した。感謝致します。どうもありがとうございました。(2000年2月18日 滋賀県 関島秀樹さん)


はじめまして。最近、池島炭坑で坑内火災が発生したと報道されていたので、大変 気になりネットサーフィンをしていたら思わぬところに池島の紹介があり、拝見させていただきました。郷里と申しましても、 父が定年退職して以来15年以上足を運んでおらず、懐かしさと、へぇ変わってると感じ入った次第です。大変懐かしく拝見さ せていただきました。我が郷里を取り上げていただき誠に有り難うございました。
(2000年2月20日 熊本県 男性)

 


荒尾出身の貴殿へ。
 MIDI−「炭掘る仲間」、「がんばろう」−有難うございます。幼き日、毎日、臼井社宅のスピーカーから流れていたこ の曲、懐かしさ、感無量です。帰省の折に、母にも聞かせたところ、涙を浮かべておりました。私は大牟田出身、今東京三鷹 にいます。やはり炭坑マンの父、そして首切り、三池闘争、三池大爆発とあの激動の日々。実家は大牟田、県境にも近い宮原 坑のすぐそばで育ちました。私の原点のひとつである大牟田と三池炭坑を思い起こす契機とすることができました。感謝しま す。有難うございました。
 (2000年2月28日 東京都 K.Tさん)


私は約7年半、三池炭鉱に勤めておりました。
 親父も炭鉱マンで、私は生まれた時から社宅住まいでした。三池争議のときは、まだ3歳前でしたので、何も覚えていませ んが、後から聞いた話では、父は三池労組刷新同盟に加わり、結成時からの新労組員でしたので、社宅に居ると(当時は宮内社 宅でした)、近所の三池労組員や主婦連から吊るし上げにあったり、投石にあったりしたので、一時期四山の旅館に疎開してい たそうです。親父が持っていた、三池争議のとき警備にきていた警察官の方が書かれた漫画日記帳にも、社宅内での三池労組 の新労組員や警官への暴言やいやがらせが綴られており、子供心に三池労組は恐ろしい人たちと思っていました。ただし、三 池労組という名前にそういうイメージがあったということで、近所のおじさんを見て、あの人は三池労組だから怖いとか思っ たわけではありません。やがて、小学、中学と成長し、お父さんが三池労組員という子とも遊びましたが親たちはいつまでも 旧労、新労というこだわりがあったようです。以前親父になんで組合が分裂したのか聞いたところ、ストが長引いて給料が出 ない、組合からのカンパ金での生活も苦しくなって、組合執行部に対し批判的な人たちがうまれ、何度か執行部に闘争方針の 再検討を申し入れても聞いてもらえず、やむを得ず新労を結成したという事を言ってました。私は、多数の組合員の指名解雇 に対し、ストライキという手段で闘った三池労組は、労働組合として当然の行動だと思いますし、またそれが余りに長きに渡 った為に起こった親父たちの行動も自分たちの生活を守るための正当な行動だったと思います。後にイデオロギーの闘いとな ってしまう三池争議ですが、末端の組合員は双方とも自分たちの生活を守るために一生懸命闘ったのではないでしょうか。三 池争議から33年後 自分が坑内に下がるようになった後起きた有明鉱坑内火災から、その後の人員整理、閉山に至るまでの 三池新労の運動方針には疑問を感じないではありませんでしたが、新労結成時の考え方は間違っていないと思います。会社主 導で作られた御用組合というレッテルが貼られていた時期もあり、そういう発言に悔しい思いをしていた新労組員の家族の一 人として、私の正直な思いを述べさせて頂きました。考えながら書きましたので、乱文お許しください。
 (2000年4月17日 荒尾市 男性)

 


私も大牟田の出身です。四山社宅に住んでおりました。故郷を離れて早30年になり ました。こうして大牟田出身の方と御話し出来て大変嬉しいです。これから時々御話しましょう。今、父と母の介護をしており ます。三池の写真を見せました。大変喜んでおりました。大牟田のホームページなどよくみております。インターネットはすご い。では又。
(2000年4月30日 茨城県 女性)


皆さんの写真拝見いたしましたが、こんなにも社宅がたくさんあったのかとびっくり いたしました。そして、どんなに温かい人々に囲まれて自分が育ったのかを改めて知ることが出来ました。本当の人の和がそこに ありました。・・・父は九州を去る際、「自分は最後まで第一組合で通した事に誇りを持っている」と申しました。その父も定 年前に退職しました。やはり事故が怖かったのだと思います。いつだったか四山病院にたまたま行ってた時、落盤があり、数 人の人が運ばれて来ました。目から耳から血が出てました。よくある事だと父が申しておりました。そんな色々な人々の思い も今は草むらになってしまいました・・。
 (2000年5月13日 茨城県 女性)

 


僕は今、生まれ故郷荒尾を離れて暮らしています。拝見してたらすごく懐かしく思え ました。じいちゃんと伯父が、炭坑マンでした。親も前は、小浜社宅や緑が丘社宅に住んでたみたいです。従兄弟が、以前原 万田の社宅にいたので泊まりにいったのを覚えてます。今は有明プラザになってる場所にあった浴場にも行ったことがありま す。すごく懐かしかったのは、幼稚園くらいの時乗った三池鉄道緑ケ丘線。緑ケ丘駅から原万田駅まで乗ったのを覚えてます。 あのころ、炭坑電車の運転主になりたかった僕は、あの、運転士さんの笑顔が忘れられません。小学校低学年の時、炭坑のや ぐらを見たいと、泣いてた時もありました。お父さんに万田抗のやぐらのそばまで連れてもらったを覚えてます。すごく、懐 かしい荒尾と大牟田。今はあまり帰りません。今、すごく帰りたくなりました。まだ、あの三池鉄道の場所歩けるのでしょう か。今度歩いてみたい。週末帰ろうかな。びっくりするだろうな、親が。(2000年5月24日 23歳の男性)


net大牟田・荒尾がんばろう会のホームページを懐かしく拝見しました。また、 「炭掘る仲間」の歌も流れ、うれしくなりました。私は昭和24年荒尾市生まれ、20歳まで荒尾に住んでいました。小学校 6年生のとき、三池争議があり、中学3年生の秋、炭塵爆発に出合いました。大学に進学後、新聞社に入り、主として関西、 関東で仕事をしてきましたが、三井三池のことは私の記者活動のひとつの原点になっています。まだ、母が荒尾の駅前に住ん でいます。(確か、関島さんは弟と玉名高校の同級生でしたね)
 (2000年6月6日 東京都 男性)

 


インターネットで「みいけ」を語ってくれることに心より感謝し拍手を送ります。
私は天草出身です。緑が丘の向日葵社宅に来たのは昭和23年、小学校3年の夏でした。翌24年4月、緑が丘小学校が開校 されるまでは平井小学校まで通学していました。その後大牟田の臼井社宅で38年間暮らしました。そして現在、再び荒尾に戻 り、小岱山の麓に住んでいます。きょう29日は「三池CO被災者の会」の年一度の総会でした。そこであなたからいただいた資 料を見てもらいました。かの、たくましかった三池の母ちゃんたちも早70代です。生き字引の先輩たちも年毎に逝かれます。 しかし、若葉社宅にいた園田茂一さん(90)や猿渡ハギエさん(80)、まだ元気です。おいおいこれからまた話します。
 (2000年6月30日 荒尾市 織田さん)


毎日新聞の朝の百葉箱をみなかったらこのホームページに出会わなかったでしょう。嬉しいで す。三池を思っているいる人がこんなにたくさんいて。
 私は、昭和34年に鉱山学校を卒業して、三川鉱に入りました。三川鉱爆発の9日前の10月31日付けで退職しましたので、 何とか命を永らえています。炭鉱生活は、僅か4年7ヶ月でしたけれど、そこで過ごした青春時代が、一番、私の精神を形作っ ていると思っています。最近、やっとインターネットを始めた超初心者の60歳です。インターネットのおかげで、本当に身近 な楽しみが増えました。よろしく。
 (2000年7月1日 男性 大牟田市)

 


はじめまして、前川さん。
 このHPにお邪魔して数ヶ月になります。昨日、両親がこのHPを見るために、私の家に来ました。「あ、これも知っている、 これはこうだ、この時はこうだったんだ」と説明。「へー、よくこのような写真を残しておいてくれたもんだ」と関心すること しきり。そして最後に、目から涙がポロリ・・・・・・・・・。失礼しました、自己紹介もせず。私、昭和32年大牟田市新港 社宅で生まれました。親父は前川さんの親父さんと同様に、指名解雇を受け昭和40年、職を求め、東京に出てきました。そし て現在に至っています。その親父も80歳を超えました。あまり三池闘争の事は、聞かない限り多くは語りませんが、このHP を見て胸迫る思いがあったようです。幸いにして私の親戚は大牟田ににいますので数年に一度ぐらいは帰ります。帰る度に車を 借りては新港社宅の前に、そしてぼう然として立っている自分。そこにはもう何もありません。なぜこれほど懐かしくあの日に 帰りたいと思うのでしょうね。
 (2000年9月3日 男性 東京都)


前川様、いろいろありがとうございます!!!
 炭鉱のことで、今はまるで死語になりつつある炭鉱のことで、こういう風に語り合える人がいるなんて、とても幸せなことで す。何を隠そう、私もヤマの子なんです。北海道の美唄、大夕張、南大夕張、芦別などを両親と共に転々としてました。最後に 美唄市で三菱石炭鉱業の閉山を経験しました。当時私は中学生でしたが、赤旗を燃やす火を囲み、大きな男達が肩を震わせてい た光景を一生忘れることはありません。北と南の違いはございますが、私も真っ黒な川を見て育ちました。21世紀を前に、こ のまま炭鉱のこと、忘れて欲しくないと強く思っております。
 (2000年10月7日 女性 横浜市)

 


私は三池CO被災者の子どもです。知人からnet大牟田・荒尾会のことを聞き、インターネットを 再開しました。見ていたら前川さんのふるさとへの思いが伝わってきてつい涙が出てしまいました。それは私は10年前に母が 心臓病で倒れたのでUターンしてきたのですが、その後荒尾市議会の議員になることになって、閉山当時社宅を残せなかったこ とが申し訳なくそのことも涙の原因ですが。そのころ万田炭坑の保存を訴えて議会でも発言してきましたが、炭坑社宅について は発言はしたものの強いものになっていなかったからです。文化財などを専門になさっている先生との話でぜひ社宅も形を残せ たらいいねという話はしていたものの、万田坑保存そのものが荒尾市は財政力がないものですからとてもきびしくて、やっと保 存が決まったもののお金はどうするという状態だったのです。ご理解下さい。またお便りします。
 (2000年10月26日 荒尾市)


昨年の夏ごろ東京の新宿サザンシアターにて「がんばろう」と言う作品を見ました。 私は今まで労働運動というものをあまり知らず生きてきた世代なのでがんばろうという言葉を聞いても何も感じなかったのが正直 なところです。でもこの作品を見て何がか分かりませんが一生懸命生きていこうという気持ちと同時に、こういう時にがんばろう という言葉を使うんだなあと知りました。
 それから三池争議やその舞台となった大牟田に興味を持ち、このホームページを知りました。とても私は好きです。こんな簡 単な言葉ですみません。でも何だかそんな感じなのです。それを伝えたくなってメールをしました。(2001年1月16日 東京・女性)

 


会社のパソコンで、偶然にこのホームページと出会いました。嬉しく、懐かしく、もの悲しく・・・前川さん、有難うございます。
 小生、昭和28年、大牟田の野添社宅の生れです。以後、荒尾の万田(通町)社宅、最後は小浜南社宅と移り、昭和41年、 三川鉱を退職した父と共に愛知県に引越し、現在に至っております。
 しかし、あの日のことは、今でも忘れることはありません。当時は、荒尾の万田(通町)社宅におりました。大きな爆発音と、 地震のような揺れを感じ、外へ飛び出したことを、覚えています。幸い父は、あの炭塵爆発の日は、休みを取っていて難を逃れ ましたが・・・。
 ところで、「篭城」はごぞんじでしょうか?三池争議の最中、会社側は操業を維持したいのですが、第1組合側は、坑口など を封鎖して、これを許しません。やむなく、船やヘリで、人口島からの入坑を試みても、大砲代わりの花火などで行く手を妨げ られます。いわゆる「三池海戦」です。そこで、会社側は「篭城」という手を使いました。一度入坑したら、一定期間(1ヶ月 程度だったと思いますが・・)会社内で寝泊りして操業を維持するものです。父は第2組合員でした。父から「明日から篭城だ、 土産は何がよかか」と何度か云われた記憶があります。また、社宅事務所へ、「篭城」先の父からの電話があり、家族中で争っ て喋った記憶もあります。
 前川さんのお父様と、私の父は反対の立場にあったわけですが、そんな垣根は、時間が取っ払ってくれたと信じています。今 後は、荒尾・大牟田を愛する人間同士として、一度お会いしてゆっくり話ができたらと思います。(2001年1月22日 愛知県豊田市・男性)


私は現在、昭和7年生まれの68歳。
 昭和27年〜39年まで三井田川鉱、閉山に伴い39年より三池の三川鉱と、昭和62年に定年になるまでの約35年間、坑 内夫一筋に働いてきました。三川鉱での23年は若葉町の43棟に住んでいました。この度、一念発起パソコンを購入、次男よ り、貴殿のホームページの話を聞き、早速開いて見せて頂きました。今後とも、楽しく、また懐かしく、見ていきたいと思って います。(2001年1月27日 熊本県・男性)

 


初めてお便りいたします、私は大牟田出身で50歳になります。現在神奈川県に住ん でおりますが、最近ホームページでこのことを知り感動しました。
 父は79歳になりますが、かつては三川鉱に勤め旧労に所属しておりました。炭塵爆発でCO中毒患者となりましたが大牟田 におります。私は大牟田北高校を卒業まで三川鉱前の床屋を利用していましたが、2年前30年ぶりに見に行ったら余りにも風 景が変わっていて周りに建物がなくびっくりしました。これからもこのホームページがますます発展するようお祈り申し上げます。 (2001年2月21日 神奈川県・男性)


昭和38年11月9日の三川坑の落盤事故について少しだけ書きます。
 あの時、土曜で翌日の朝には、ラジオで亡くなった人の名前を告げていました。 私はいとこが勤めていたので耳をそばだてて 聞いたものでした。でも、誰もラジオでは言わなかったので安心しました。ところが、なんと一人のいとこが亡くなっていました。 朝の放送の時には、まだ分からなかったのでした。聞くところによれば、一番奥で仕事をしていて事故に遇い、運び出されたのは、 落盤後丸24時間立っていたそうです。友達のお父さん(新港社宅に住んでいた)も、CO中毒で、病院に通っておられましたが、 友達からの便りでは、昨年亡くなられたそうです。だんだんとその当時の人は力つきて亡くなって行かれる中、前川さんのページ は、後に残る者を勇気づけていると思っています。がんばってください。(2001年3月19日大阪 女性)

 


前川さん、万田公園の桜が満開です。
 昔むかし、まだ私が小学1年か2年のころ、万田公園一帯で桜祭りをやっていました。ぜんざいや宝探しなどがあり、大勢の人 で賑わっていたのが今も懐かしく思い出されます。私が荒尾で「花いっぱい運動」をはじめたのも万田公園の桜まつりへの郷愁か らなのです。生きていれば97歳の父は万田坑員でした。炭鉱全盛期の思い出を持つ人がだんだん少なくなってきています。山ん 神さんは炭鉱で働く人たちの神様でした。炭鉱の街のシンボルだったのです。宗派を問わず、そう言った意味で残したいです。今 は埋められていますが、万田公園にあった大人用のプール跡を花壇にして・・・と、私の夢は広がるばかりなのですが・・・。  (2001年4月4日 あらお夢・花の会)


私は昭和27年生まれです。
 高校を出て以来30年たって、医師として戻って来ました。人の多かった県境の四つ山の商店街、新栄町も今は閑散としていま す。まだ子供の頃の荒尾・大牟田の記憶と現実とのギャップが埋まらないですね。緑ヶ丘の炭住には、おば家族が住んでいました。 しかし夫が珪肺になり、川崎に転出していきました。これも30年前くらいです。この頃は炭住からの離散が相次いだ時期でしょ うね。あれから約40年が過ぎました。そして三池争議もひとつの歴史となりました。父は日教組の委員をしており、三池争議に 巻き込まれていたようです。子供も含めた荒尾市民の多くが、巻き込まれていった闘争だったようですね。そして炭塵爆発、丁度 そのとき大牟田に来ていました。爆発音を聞いたような気がします。確か、昼過ぎ〜夕方にかけておこったような記憶があります。 荒尾〜大牟田はひとつの巨大産業が栄え、消えていった歴史の証人そのものですよね。当事者は老いています。これからは我々の 世代が語りついでいかねばなりませんね。
 (2001年4月25日 熊本県荒尾市 男性)

 


私は第3中学校の昭和37年度の卒業生です。桂町に住んでいました。
 なんとなく検索していましたらこのホ−ムペ−ジがありました。懐かしさに誘われて見入ってしまいました。緑が丘小学校&第 3中学校古い校舎を懐かしく拝見しました。有れもあつた。これも有ったと思いながら何十年も前のことを思いだしました。炭住 街の写真も懐かしく拝見しました。ありがとう御座いました。
 (2001年6月3日 神奈川県)


はじめまして。私は四山で生まれその後すぐ勝立(馬渡社宅)に移り父が亡くなって歴木に住んでおりました。
 三池工業卒業後、東京で約19年働いておりましたがその会社を昨年いっぱいで退社し以前から念願であった故郷大牟田で暮らし ております。退社帰郷には大変悩みましたが妻の理解、私の母親の体力の衰え、故郷への想いで私を決心させました。今現在もこ の選択は間違ってなかったと思います。
 大牟田に帰ってからこちらのホームページを初めて拝見しまして感謝感激しております。いつのまにか涙があふれて来ました。 何故なんでしょうか?小さい頃住んでいた馬渡社宅へ今年久しぶりに行った時と似ているように思います。
 大牟田の街並みも昔とはずいぶん様変わりし景気も悪いですがいつまでも炭鉱の街ふるさと大牟田を愛し、住み続けようと思っ ております。
 (2001年11月4日 熊本県荒尾市 男性)

 

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