故郷に寄せる熱きメッセージ その3


昨年の11月に偶然、鹿児島本線の特急車内で、関島秀樹さんとお話する機会がありまして、 以来メールを交換しています。前川さんが、お父さんのことを知りたいと思っておられることを、その関島さんからお聞きし、私で 何かお役に立つことがあればと思いまして、突然ですが、お便りしています。私も昭和23年から「大谷社宅」に住んでいました。 昭和49年からは、緑ケ丘社宅の「山吹町」(現在は「有明成田山」の近くです)に平成元年まで住んでいました。
 私は「三池炭鉱」が閉山する平成9年まで、三池で働いていました。私が先日のメールで、じん肺のことはもう前川さんに 話すことはない、と書きました。上手く気持ちを言い表せませんが、前川さんが、ただ、郷愁のために、炭鉱遺産を残そうと の運動をされてると思いました。そうであるならば、そのこと自体は立派なことなので、蔭ながら応援し、波風を立てたくなか ったのです。しかし、やはり、三井が三池の地に功績も残したが、多くの労働者の犠牲の上に繁栄したことを見つめて運動する こともまた大事なことだと思っているのです。(2002年1月4日 熊本県荒尾市 男性)


関島秀樹さんのホームページの検索中にこちらを知りました。
 今は横浜にいますが私も荒尾育ち。でも炭鉱の問題はまったく認識せずに故郷を出ました。今では両親とも他界し住み慣れた家も とうになく、私にとって郷愁を誘われるものはもう何もない、はずでした。けれど、こちらのホームページ内を旅するうちに・・・ 私の中でなにやらうごめくものが・・・。今は何も形になりませんが、知ることからはじめたいと思っています。
(2002年2月11日 横浜市 女性)

 


私の家は桂町社宅の95棟でした。楓町の床屋の後ろにあった広場を隔てたところにありました。 炭塵爆発事故のときは社宅の家の前の道路を夜遅くまで車が行ったり来たり、忙しく走っていました。
 今年は実に25年ぶりに正月を故郷で迎えました。その折、バソコンをたずさえ帰郷しました。自分の親、および社宅に住んで昔から 付き合いのある、近所の知り合いの方々を呼んでパソコンの「異風者からの通信」をみせました。「異風者からの通信」の父ちゃんたち の労働歌のところでは炭掘る仲間の演奏が流れた後、誰とはなしに歌いはじめ、皆さんでの合唱となりました。親たちにとっては若かり し頃の青春(闘争)の証でもあり、忘れがたい過ぎにし、いにしえの幻でもあると確信しました。いろいろの考え方、主義主張はあると考 えますが、解雇通告に対し、人のためにいちがんとなって闘った親たちの姿は素晴らしいものと考えています。人のためにいちがんとな って闘う。こんなことは労働史の中でも稀有で今後は絶対にありえないものと考えられます。三井三池の戦いの中の親たちの姿は現在の 我々が従事する企業のなかでも生き方の手本にもなると考えます。幼いころ、聞くとはなしにスピ−カから流れてきた「みん〜な〜な〜 か〜ま〜だ」の労働歌。五十路をばく進中のものにとっても郷愁を感じさせるに余りあります。また、「しあ〜わせ〜はお〜い〜らのね がい」の歌詞は当時の組合宣伝カ-「はたかぜ号」までをもほうふつとさせます。当時の方々(おじさん、おばさん)はチリジリばらばらに なり、荒尾に残った方々も一人また一人と欠けてきている現状ですが、少しでも幼き頃の故郷に触れる活動があることを心強く感じてい ます。
 今回お便りしましたのは、「異風者からの通信」の写真の中に父の姿があるのを母が発見しました。知り合いの東さんの奥さん、草野 さんのおばさんの姿もあり、またまた大変懐かしく拝見しました。各所の写真では画面の写真を虫眼鏡でみて知人を探す姿は言葉に形容 しがたいものがあります。ほとんどのことに驚かない年齢の母上ですが若葉町の関連写真、闘争の写真が沢山あることに驚いていました。 遠くにいながら故郷の状況を知ることができるのも嬉しいものです。このホ−ムペ−ジを開設されている前川さんに感謝します。又、 いつの日か、将来、ホ−ムペ−ジの文書版が作成されることも夢見ています。
(2002年2月28日 神奈川県川崎市 男性)


荒尾にいた当時の奥底に眠っている記憶の糸を探っていた一日のような気がします。
 不思議ですね!どうしてこんな気持ちになるのでしょうね。大人になってその後の年月の方がずーっとずーっと長いはずなの ですが。何かすごく大事な宝物でも幼い時代をすごしたあの懐かしいところに置き忘れてしまったかのようです。私の心は大人 になってからでは手に入れることのできないなにかを、もう一度つかみたいと願っているのかもしれないですね。私の父は坑道 にもぐって仕事をしていたときに落盤にあって頭を打って治療していた時期がありました。炭鉱電車の運転をしていたこともあ ったようです。私が中学生のときこたつに入っていましたら何か遠くの方でドーンという音がきこえたことを覚えています。そ れが、460人でしたか480人でしたか大勢の方がなくなった炭塵爆発でした。中学校の私のクラスも何人かの友達が父親を そのときに亡くしました。父も救助の手伝いに行きました。(埼玉県 男性)

 


「異風者からの通信」のことを7月25日付の有明新報で知りました。有明新報は郵送に て購読してます。
 私も荒尾市出身です。父は炭鉱ではありませんでしたが、石炭を原料にした大牟田の化学会社に勤めておりました。三池争議の時には、 自宅近くの競馬場に機動隊が幕営していました。貝堀りにいくとよく機動隊の連中と会いました。赤貝(私たちが欲しいもの)とタイラ ギ(彼らが欲しいもの)を交換しました。競馬場の堤防下で泳いでいると、海上で火薬を使って新旧組合が戦っているのを見かけました。 近くに大平社宅があったので退職勧告通知書の配達に郵便局員が来ると社宅中に放送で知らせているのが聞こえました。市屋付近でのデ モ風景は懐かしく見させていただきました。炭塵爆発も忘れることができません。爆発時に、宮内出目の自宅の窓ガラスがビシビシとな りました。こくんぞさん(四ツ山)の方を見ると山の右手に細い一筋の黒煙が上がっていました。村中でも多数の方がなくなりました。 荼毘に伏すのに斎場が足りずに佐賀・長崎・宮崎等の近隣各県まで出かけたと聞いています。多くの遺族が出たため、修学旅行の小遣い 銭まで厳しく制限されました。また、先生が告別式に参列されるので、毎日何時間かは自習になりました。
 まだまだ、沢山のことがありますが、今夜はこれぐらいにさせて戴きます。
   (2002年7月27日 大阪府高石市 男性)


荒尾のそれも緑ヶ丘の写真なつかしく拝見しました。私も(昭和26年生)で小学校3年 〜6年の間社宅(小鳩町)に住んでいました。社宅の仲間たちと野原で遊んだこと、ケンダマを競ったこと(ケンダマは今でもできま す)、共同浴場のこといろいろ思い出してきます。荒尾には高校生の時までいて、いま下関に在住しています。どうもなつかしい写真 ありがとうございました。(山口県 男性)

 


福岡に住む32才の者です。大牟田育ちです。なにげなく大牟田を検索したらこちらのページ にいきつき仕事も忘れてくいいるように見させて頂きました。
 私の祖父、両親共に直接炭坑とは全く関係のない仕事でしたが小・中学校の友人の親御さんなどはたくさんの炭坑関係者がいました。 閉山後たくさんの社宅が取り壊されたとニュースで見ていましたが、こちらのHPで友人達が住んでいた小浜社宅の跡を見て愕然となり、 他の写真を見ていくうちに自然と涙がでてきました。また、有明鉱の火災が起きた中学時代に、友人の父親が遺族の補償問題で大変苦労 されたことを思い出しました。たしかあの時は、珍しく雪が積もっていたことも思い出されます。
 三池争議は勿論、三川坑の大事故も当然リアルタイムでは知りませんが、父からの話でよく聞かされてました。小学3年生の社会の教 科書が「わたしたちのおおむた」という大変ローカルな教科書で一年間大牟田の歴史を学んだこともあります。
 釣りをするために自転車を30分以上こいで行った、万田公園。実家の商売繁盛の祈願で毎年行った四ツ山のこくんぞさん。新栄町にあ った炭坑列車の高架下に猿が飼われていたことなど、次から次に思い出が沸き出てきます。大牟田の実家には、子供ができて以来月イチ で帰省していますが自宅以外には動物園と小川開き跡の諏訪公園程度しか連れて行ってません。今度の盆の帰省には小一の息子を連れて、 私が育った街をじっくりと見せたいと思います。
 本当はもっと色んなお礼を込めて書きたいのですが、思いがありすぎて書けません。一つだけ最後に書きたいのは、私のような若者? にでも十分に「故郷」というものを考えさせられたということです。 本当にありがとうございました。
  (2002年8月1日 福岡県 男性)


昭和23年生まれの54才。荒尾梨が食べたくなり、HPページ検索中三池争議を見つけ、懐 かしくなり、写真とメールを見ていると、今はゴルフ場になっている、大谷社宅西21棟が写真に写っている。一瞬ポント6才から18才 頃の想いが、悪がき、駄菓子屋のおじさん、おばさん、魚屋、野菜屋、風呂屋、池黒、ヒョウタン池、床屋で10円散髪代終わった後に、 細長い風船もらった、自転車の荷台に乗せてアイスキャンデ屋、あの坂道、あの崖、荒尾第4小、荒尾第5中、ホント切りがないほど、 湧いてきます。今も、ゴルフ場にポツンと一本の樹木が立っています。
 亡き親父、長男70才、次男60才前後、3人が炭鉱マンで、私も炭鉱マンになると母親に言いましたら、こぴどく怒られまして、一 人ぐらい外の仕事してくれ、と泣かれました。その時高校生、今もわすれません。その数日後大牟田高校で授業中ドーンと地響きが凄か った。窓から外を見たら、三池の方から白いような、黒いような煙が湧き上がるように空に・・・炭塵爆発。その時兄貴二人たまたまど ちらも無事でしたが、穴の中に助けに行く姿ハッキリ。ただ怖かった、その惨状は・・・・・。兄から中の様子を聞きただ悔しかった。 昨日会った人、きょう会った奥さん、どがんしたら、よかちやろか、今もあの時のことは、痛いです。そして、長男第二組合、次男バリ バリ第一組合の活動家、そら家中凄かったです。その兄が2001年5月、「詩集 もう一つの三池」を出しました。私もまだ、がんば ります。(2002年9月16日 福岡市 54才まだ青春)

 


私は、熊本県荒尾市で生まれ、西原社宅に6歳頃まで住んでおりました。
 三池争議のことはあまり覚えていませんが、赤紙ーみいけの年表の、昭和38年11月9日の記事を読んで、当時の三川坑爆発の無残 さがよみがえり、亡き父を思い出し涙がこぼれました。その日父は2番方で、小学校に行っていた私は何も知らずに遊んで家に帰りまし た。夕方炭鉱で、爆発があったと聞いた時は、「とうちゃんは、大丈夫たい」と思っていましたが・・・・父は、人車に座ったまま眠る ように、逝ったそうです。なお、兄は、閉山まで採炭夫でした。
(2002年10月31日 名古屋市 男性)


「にぃちゃ〜〜ん ちゃんと顔洗ったとね?」
  「あろうたくさぁ〜〜」
  「ばってん 目の周りはまっくろばい!(笑)」
  「そうかぁ?〜〜しょんなか〜 こら炭坑の男の誇りたい!」

 そう言っていっつも すすくれていた兄も 人生半ばにして病により亡くなってしまいました。四山坑の写真を拝見したとたん。 涙が溢れてきました。忘れかけていた兄の すすくれた大好きな顔を思い出させて頂いてありがとうございました。また覗かせて 頂きます。
(2002年11月9日 花)

 


覚えたてのパソコンで故郷情報を何気なく探していたらこの欄がありました。私は、鶯町 と大島社宅に住み、緑ヶ丘小、二中の出身です。今も社宅での生活が懐かしい1人です。若葉町にもたくさん友達がいました。しかし、 社宅がなくなってみんなが散り散り。クラス会も開けません。このサイトに故郷の香りがしました。(2003年1月13日 千葉県  男性)


当方、産業医大を卒後、産業医学という事業主に組する事もなく、労働者の幸福追求権を 見限る事のない公平無私の立場にある学問を追及している者です。
 産業医大にいた2001年2月頃、現学長の監視下で衛生委員会、安全衛生委員会の話を「仕方なく産業医になるか」というような志 の低い方がほとんどの中で致すときhttp://www.miike-coalmine.net/sougi/sougi3.htmlから写真を無断でしたが取り上げ「産業医 学とは疫学と法体系が組み合わさる事で公平無視ではなく、公平無私の立場になれる」と申し上げた事がありました。残念ながら、疫学 が専門の現学長には不評でした。その後、産業衛生学会より専門医認定を受けるまでになり、縁あって医大で産業医学を教える立場にな りました。今回、医学部生に産業医学の講義をするにあたって「久保清さんがなぜ殺されるに至ったのか」を始め三井三池争議を題材に 取り上げたく、2年ぶりにhttp://www.miike-coalmine.net/sougi/sougi3.htmlを見直してみました。
 涙が止まりませんでした。一酸化炭素中毒で今も苦しむ本人、家族・・・・。「炭鉱で働いていた」という事をいえない方々・・・。 二度とそのような不幸を日本で出さないためにも、今後とも精進したいと心に誓った次第です。(2003年1月26日 医学教授)

 


私はまったく炭鉱とは関連なく育ち、現在静岡県にいる20歳の大学生です。大学の講義の 中での参考として、このHPを見つけました。その講義の教授の父親も炭鉱で働いていたようで、とても熱い講義でした。自分は工学に ついて学んでいて、石油へのエネルギー転換や外国炭の輸入増加は必然的であると今まで認識していたのですが、そこには必然的と片 付けてはいけない深いものがあることを初めて知りました。歴史の背景を教えてくれたこのホームページと講義に感謝です。 (2003年2月19日 静岡県 大学生)


私は、宮内社宅で少年時代を過ごしました。去年久しぶりで(何十年)行ってみてびっくりしました。 100軒くらいの社宅があったのが、ゴルフ場と荒地になっていました。たくさんの人たちが生活していたはずの場所で、私や友人たちが 遊んだ場所でしたが。時間がたつということはこういうことなのかと改めて思いました。 (2003年3月5日 埼玉県上尾市 男性)

 


どうも、はじめまして、うっちゃんです。
 まえかわさん直々に教えて貰ってHPを拝見させてもらいましたが、見てみてその内容の濃さにビックリしました。  僕ら若い者の世代から見れば、三池炭坑というのは、社会の教科書の1ページに過ぎないと考える者が大半だとは 思いますが、消えていく運命であったとはいえ、この世の中に存在したときには、その周囲には多くの人々の暮らし や人生があるのは当然です。(まさにプロジェクトXです)
 炭坑の開山から閉山までを人生に例えるなら、いろいろな事件や事故は人生における様々な出来事と一緒ですし、 この世に存在した以上は、人生同様誰かが語り継いでやらなければ、単なる教科書の行を埋めるだけの存在にしかな らないと思います。
 「あぁ、そんな炭坑もあったよな」ではなく、いいことも悪いことも含めて、そうした「炭坑の人生」の中から自 分達が学び取れるものがある。それが大事だと思います。
 そうした意味で、こうしたHPの存在は、とても重要だと思います。堅い文章になりましたが、このHPで知られ ざる炭坑の歴史を知ったことは大変勉強になりました。これからも、HP製作頑張ってください。
(2003年3月12日 滋賀県 男性)


初めてお便り申しあげます。私は現在、岐阜市に在住しております。
 偶然にこのホームページを見つけて、大変懐かしく拝見させていただきました。見ているうちに、何か胸が熱くなってしまって、 このお便りを送ることにいたしました。
 もう40年も前になりますが、私はあの三池の炭鉱爆発事故の現場に取材に行っていたのです。この1963年11月9日という 日は、大きな事故がふたつ続けて起きた日でした。午後3時、この大牟田の三池炭鉱での爆発事故があって、午後9時には東海道線 鶴見駅で列車の衝突事故がありました。鶴見駅の衝突事故も死者161名(重軽傷者120名)という大惨事でした。
 私のいとこが、ある政治団体の機関紙の編集部におりました。この機関紙の編集部では、労災事故の特集号を発行するために、二 つの事故を取材しなければならず、スタッフの少ない編集部ではまかないきれず、いとこは、私に電話をかけて来て、九州の三池炭 鉱に取材に行って欲しいと言ったのです。私は当時、美術大学の4年生で、来春の卒業に向けての、卒業制作のための作品を制作し ているさなかでした。こんなわけで、東京から九州まで、にわか仕立ての記者になって行くことになったのです。
 10日に東京を立ち、大牟田に到着したのは11日でした。初めて事故の現場に立って、戦場のような周囲の雰囲気の中で、私は 足が震え、暫くはまともに物を考えられないほどでした。斜坑の坑口の正面にあった建物は、爆風でほぼ壊滅していて、その時の爆 風の凄さを無言で語っていました。
 三日目の現場では、まだ凄惨な遺体が坑内から上がって来ていました。私の取材を誘導してしてくれていた三池労組の方は、目に 涙を浮かべながら、「会社が俺達にどんな酷いことをしたかの証拠だ、これを撮ってくれと」と、私を一番凄惨な遺体の所へ連れて 行くのでした。プロでもなく、事故現場取材の経験もない私には、その光景をカメラに収めることはとても辛いことでした。一酸化 炭素に冒され、意識を失っている人や、空ろな眼差しのおびただしい数の鉱夫の方々の病院の取材は、自分の目で直接見るにはあま りにも辛すぎて、カメラの小さなファインダーを通して見る方がすこし、その辛さがやわらぐような気がしていました。とにかく、 こんな惨状を、世間の人たちは知るべきだという強い思いで、シャッターを切り続けていたように思います。
 このような炭坑事故の取材を通して、私は自分がこれまで知らなかった人々の世界を知りました。私にとって、自分自身の「死」 などは、余程まれな交通事故などに遭うような場合以外には考えられないことでした。しかし、この炭坑で働いておられる鉱夫の方 々には、明日は我が身とか、仕事に出かける夫を、これが見納めかと心で思って送り出すこともあるなどの話を聞いて、常に事故死 と背中合わせに日常生活を送られている、こんな厳しい現実の世界があるとは想像もしていませんでした。
 こんな状況にありながら、暖かく、優しく、そして逞しい生き様や、身を挺して同僚を助けに坑道を下った鉱夫たちの、長い闘争 に培われた連帯感の強さなど。事故現場の凄惨さと、その周辺で展開された様々な人間のドラマは、束になって私の心を激しく揺さ ぶりました。
 取材を終えて、23日の真夜中に博多から飛び、東京の編集部に帰ったのは、午前4時頃でした。朝まで仮眠をしようと、ソファ ーで寝ていると、朝方、いとこが突然私の肩を揺すって起こしたのです。何事かと思ったら、いとこは「ケネディが打たれて死んで しまった」と、言ったのでした。これも忘れられない思い出です。いとこからの突然の電話は、私を全く異なる世界の人との出会い に導いたのです。まだ、22歳の、世の中をほとんど知らず、平穏な生活に慣れていた私には、想像を絶する体験でした。
 今、40年も経っても、あの時の光景と感動的な人々の記憶はまざまざと蘇り、忘れることはできません。改めて当時の事故で亡 くなられた方々へのご冥福を祈りたいと思います。また、CO中毒で入院なさって、現在もまだ療養なされている方もおられるとか。 一日も早いご回復をお祈りしたいと思います。
(2003年5月3日 岐阜県 男性)

 


私は山吹町の社宅で生まれ育ち、高校卒業まで住んでいました。現在福岡県の北九州に住んでおりま す。
 先日、父親が84年の人生の幕を閉じましたが、私の父は四山鉱の坑内で電気係員をしていたそうで、退職するまで三池労組員で した。実は、葬儀の日にこのホームページと不思議な縁がありました。と言いますのは、有明鉱ページの写真の織田さんが弔辞を読 まれたことです。弔辞の内容は概ね次のような事で、大正、昭和、平成を信念を持って人に媚びることなく己の道を歩いてきた事、 定年退職のときの繰込み場の事、退職後の市議選、県議選の運動でみぞれの降る山道を二人で回ったとき、先頭にたちぐいぐい引張 ってくれた事等でした。
 弔辞を読まれたときは有明鉱の織田さんとは思いもよらなかったのですが、葬儀後実家で弟と話をしていて、弔辞の話題になった とき、弟が織田信長の「オダさん」と言ったのでこのホームページのことを話したところ、「その織田さんに間違いない。今から連 れて来る」ということになり、実家へ来ていただき深夜まで酒を酌み交わしお話を伺いました。ちなみに、父も弟も織田さんとは親 交があり、知らぬは地元を離れている私だけでした。
 その夜、父の思い出話を肴に酒を酌み交わしましたが、坑内での一つの逸話を聞かせていただきました。普段は三池労組員は入坑 手続きをしたら繰込み場には行かなかったそうですが、父が退職するその日に、一言挨拶をするということでそこに出向いたが、会 社側は認めなかったそうで、押し問答の末、職員を振切って一段高いところに上がり思いのたけをぶちまけたそうでした。当時は三 池労組員の数は少なく、作業環境の悪い場所に配置されるのが常で、賃金での差別もされていたそうです。そうしたことの思いが繰 込み場での演説になったのではとのお話でした。
 それは普段私たち家族の前では見せた事の無い激しいもののようでした。父は坑内のことを家ではあまり話しませんで、家でも子 供を怒るとこを見た事は無く、温厚な男と思っていましたが、内面では闘志を燃やし続けていたのだなと改めて思うしだいです。
 もう一つ、我家には父親に対して感謝の念に耐えない事があります。それは中学1年生頃だったかと思いますが、三番方から帰っ てきて、朝食を食べるとそのまま近くの土木工事現場でアルバイトをして、夕方帰宅したら3時間ほど寝て三番方に出勤していた事 です。母親も当然パートに出ていましたが、何分食べ盛りの男三人の子供がいたので、家計は火だるま状態だったのでしょう。頑強 な父も、たまに疲れ果て出勤時間になっても起き上がれないことがありまして、そのときは講堂前の社宅事務所へ四山鉱に欠勤の連 絡の電話を掛けに行きました。中には横柄な態度の事務員もいて、「子供をよこして」と嫌味をたっぷりと言われた嫌な思い出もあ りました。
(2003年5月4日 福岡県 男性)


私は小学5年まで北海道空知郡上砂川町の社宅に住んでいました。三井鉱山上砂川鉱業所 です。そこでの思い出、郷愁・・・前川さんの荒尾に対する思いに負けません。
 そして、大牟田の三池鉱業所、更に荒尾の四ッ山鉱・・・。上砂川第一小学校〜大牟田市立不知火小学校〜大牟田市立延命中学校 〜荒尾高校〜大阪〜奈良。小学生が転校すると言うことは、どんな思いか、前川さんにはお分かりかと思います。
 荒尾は青春真っ只中の思い出の土地です。何にもまして思い出の土地です。良いも悪いも・・・・関島さんの「ARAO 」の歌を 聞くと涙が湧いてきて・・・・。
 私の父は恐らく前川さんのお父上とは対極の立場に居た人間だと思います。しかし、親戚の叔父たちは皆前川さんのお父上と立場 を同じくする人たちです。その反動だと思います。大学にあっては、全学連。会社にあっては入社3年目にして労組の委員長。しか も、総評・化学同盟。悲しいかな、立派な思想的なバックボーンがあったわけではありません。当然、父はカンカンでした。
 つまらない事を長々と書いてしまいました。気にいらない部分は忘れて下さい。少し書いている内に気持ちが高ぶってきました。 荒尾には今も弟と母が緑ヶ丘に住んでいます。(2003年5月5日 奈良県 男性)

 


はじめまして。地球の裏側からです。
 生まれも育ちも宮崎ですが、祖父が筑豊の炭鉱夫であり、私自身は青春時代を熊本で過ごし、何かと炭鉱に縁のある者です。現在 は仕事の都合でイギリスに住んでいます。ふとした契機で炭鉱に興味を持つこととなり、前川さんのWebにもちょくちょくお邪魔して おります。残念ながら日本では炭鉱は全て閉鉱してしまいましたが、ここイギリスで思いがけなく今も稼動している炭鉱を発見しま した。私自身、実際に動いている炭鉱を目にしたのは初めてであり、まさに感動でした。他にも19世紀の煉瓦積立抗や、多数のボタ 山、炭鉱住宅らしきものなどもあり興味深い土地です。Wales地方のHondda Valleyというところです。今後も頑張ってください。 (2003年5月6日イギリス 男性)


前川さんのお陰で、ホームページ「異風者からの通信」の中でも母と逢えてとても幸せです。
 母が亡くなりまして気づいた事があります。介護が大変で私ってなんて不幸だろう・・・とかなんて思っておりました。でも違 っておりました。親を看取る事が出来る幸せもあるのですね。それまで考えもしませんでした。亡くなる前には母は全然話がで きずそのまま逝ってしまいまいましたが、ある日仏壇で合掌している時に母の「ありがとう世話になったね」・・・と言う声が確 かに聞こえました。(*_*) その他に沢山、母の意志と思える事柄をみるにつけ死者の魂の存在を思い、前川さんのHPの大切さを 実感しました。
 あのときの闘争を色々書いていらっしゃる方がいますが、人間の命の重さの前には第一も第二もなんら一枚の紙の様に思える時 があります。テレビの前で泣いていた母達(何度も事故がありましたからね)。女の悲しさを思うとき、残った三池の子ども達は 何時までもこだわらずにもとのように仲良くしていくのが、炭坑街を愛してやまない私たちの役目の様に思います。生意気で申し わけありません。このところ帰郷して懐かしく、故郷を愛しく思い書き綴りました。あなたの奥様も介護に大変かと思いますが、 終わってみればなんて短かったのかしら・・・と思えるから不思議です。今は母の体温が懐かしいです。毎日さわって介護してお りましたから・・・・・。
  (2003年6月24日 茨城県 女性)

 


このHPを懐かしく拝見しました。
 私は10才まで緑ヶ丘楓町で過ごしました。今はもう見ることもできない社宅跡など、全てが懐かしく思い出されます。若葉町 の写真に叔父の姿もありました。私の父はもう29年前に56歳で亡くなりました。父には組合などにも連れて行ってもらったり しました。社宅のすぐ上に集会所があり、「がんばろう」や「炭掘る仲間」を聞き、親の鉢巻きをして、デモの真似をして遊んで いたのも思い出します。あの頃は、経済的にはほんとうに大変でしたが、今思えば貴重な経験をしたと思っています。三池のこと 残していただき、ほんとうにうれしく思っています。今後ともがんばって下さい。
  (2003年6月25日 兵庫県 女性)


お盆にヤフー検索であなたの『異風者からの通信』HPの存在を知り、たいへんなご 努力に感激しました。同時に深く感謝申し上げます。今後とも更新情報を楽しみにしております。どうぞ頑張って下さい。
 私は父が三井鉱山に勤めていたため私自身も炭鉱社宅で育ちました。中学を卒業するまで大牟田の白金社宅にいました。三池争 議の時も三川坑炭塵爆発の時も私はずっと白金社宅でした。幼年期の私にはデモ行進と「炭掘る仲間」が原風景そのものでした。 思い出せば思い出すほどやり切れなくなるのになぜ懐かしくて仕方がないのか、なぜのめり込んでしまうのか、本当に不思議です。 言葉には言い尽くせない大切な何かがあることだけは確かですね。
 父はまじめで責任感の強い保安監督官でした。職員でしたが、いつもみんなといっしょに坑内に身をおいて危険を共にし、一緒 に働いて、会社側とはいつも対立していたので、なにかといえば目の敵にされてやはり随分苦労したようです。定年後4年で脳血 栓になりました。もう18年前に71才で亡くなりましたが、父も偉かったと思います。
 私はマルクス主義の立場で経済学や批判経営学・協同組合論・非営利組織論などを研究しています。労働組合論自体は、私の専 門ではありませんが、いまこそ三池闘争に立ち返って研究・再評価すべき時期ではないかと思い始めていた矢先のHPとの出会い でした。三池炭鉱労働組合史は研究対象としてぜひとも学び直したいと思っています。そこから21世紀現代への教訓を大いに引 き出したいものです。
 前川さんは私の三つか四つ先輩の学年ですね。郷里から遠く離れていても同じ望郷の想いを前川さんと交流できてとてもうれし いです。
(2003年9月1日 横浜市 男性)

 


仕事の合間に、故郷の大牟田市を検索したところ、このサイトに出会いました。
 自分は現在41歳になりますが、22歳まで大牟田市に住んでいました。17歳まで七夕社宅(大牟田市白川)に両親と住み、 このホームページに出てくる社宅は少年ソフトボール大会で練習に行ったり、遊びに行った事があり、すごく懐かしく感じました。 勿論、自分が住んでいた七夕社宅跡も今は跡形も無く住宅地になっているようですが、頭の中には鮮明に当時の社宅の配置、共同 風呂他多くの記憶が残っています。もし将来タイムマシーンができたら必ず行ってみたい場面です。
 ☆亡き父と手をつないで風呂に通った思い出
 ☆風呂の帰りに買ってもらったコーヒー牛乳のおいしかったこと
 ☆女性風呂をのぞいておこられたこと
 ☆仲の良い友達と時間を決めて一緒に風呂に通った事
 ☆風呂の帰りにともだちや先輩とよくタバコを吸ったこと(笑)
実際、住んでいる時は、他の学校の友達の家のように、風呂が家にあって、部屋がいくつもあるのはいいなーと、よく思ったもので すが、今思えば、楽しい思い出ばかりです。自分も17歳で親が家を建てたため、その後は行ってみようという気も起こらず、社宅 の事も忘れているような状況でした。あるとき帰省した折、偶然通った田崎社宅(七夕社宅とは近い距離にありました)が解体され ているのをみて、おもわず七夕社宅のあった場所に行きました。そこは新興住宅地となっており、見る影もなく新しい家々が建って いました。自分が住んでいた家のあとは公園になっており、ブランコ、滑り台が設置されていました。そこに立ち、15年前くらい までここに住んでいた事、さらに子供のころこの地面の上で友達と遊んでいた事を思いだし、涙が出てきたのを覚えています。すぐ そばの白川小学校の校舎も建て替えられており、昔と変わらないのは遠くに見える三池山の風景くらいと感じました。今、思えば写 真という記憶媒体でいろんなものを取っておけば・・・という後悔もあります。でも、前川さんの色んな写真を拝見し元気が出たよ うな気がします。
 今、自分はマレーシアに5年間契約で転勤で来ております。現在、日本へは3ケ月に1回ペースで戻っています。ここ数年、故郷、 大牟田市への帰省も3〜4年に1回でしたが、次回の日本帰国時には絶対、大牟田に帰省すると心に決めました。
 これからも色んなご苦労があると思いますが、サイト運営頑張ってください。社宅の解体、新栄町含めた町の衰退他、大牟田には 大きな変化がありますが、一時代の終焉が招いた代償はまだまだ終わっていないと感じております。(2003年9月7日マレーシア男性)


私は荒尾市大島町で生まれで、四山鉱正門の近くに小3年までいました。本家はまだあり ます。
 荒尾・大牟田の人で三井三池鉱山に関係してない人は少ないと思います。三池争議の時、伯父たちが、兄、弟と組合が違い、 亡祖母、亡父が気をもんでいたの覚えています。本家の伯父は炭塵爆発の1年前位の6月の末の落盤事故で亡くなり、末の叔父 が泣きながら夜、連絡に来たのを覚えています。従姉弟たちがかわいそうで、一番つらい思いをしたのは、亡祖母だと思います。
 炭塵爆発の時は、私は中3で、確かあの日は土曜日で四山の県境に母と妹を迎えに行った時、ドーンする音が聞こえて、母が 「なんごつじゃろか」と言ったのを覚えています。亡父が二人の叔父たちの無事を確認して夜遅く帰って来たのも覚えています。
 下の叔父も一度落盤で背中を怪我をして天領町の三井病院に入院していた事がありました。私が亡父に、「どうして皆なあんな 危ないところへ仕事に行くのか?」と聞いたら、「女房・子供の為、男は命を賭けて守るのだ」と言ったの覚えています。
 以上が私の大牟田・荒尾の故郷の記憶です。しかし大牟田・荒尾は静かになりすぎました。もっと元気にしましょう。(2003年 10月28日神奈川県川崎市 男性)

 


私は荒尾出身で今は神奈川の大学に通っている者です。
 以前から、自分の生まれ育った町、荒尾、大牟田で起こった三池争議について、関心がありました。
 このたび、大学の図書館で三池争議についてのNHKスペシャルのビデオを観ました。私の祖父が戦地から引き上げて来て、炭鉱で 働いていた事は知っていましたが、三池争議のような総資本対総労働のような池田内閣の仲介を必要とする、政府を巻き込んだ世界 でも類を見ない労働争議が起こったという事までは知りませんでした。
 今、私は大学の卒業論文で、カール・マルクスの『資本論』と近代経済学の比較をテーマに日々研究に取り組んでいます。三池争 議のビデオは私の卒業論文にとってとても勉強になりました。
  (2003年11月28日 神奈川県 20代の男性)


この度は本町のホームページで「にあんちゃんの里」をご覧いただきありがとうございました。
 いろんな思いで記念碑をつくったり、「にあんちゃん」の本の復刻版をしたりしています。私は原作者の安本末子さんの同級生で あり、同級生の協力を得てここまで来れました。豊かになった日本がその過程で失ってきたものも数多くあるとの思いから・・・。
 青少年の犯罪が多発する今、経済が失速した今、史上最大の失業者を出している今、人々の道徳心が希薄化している今、この10 才の少女が書いた日記本が生きるエネルギーを与えてくれる気がしてなりません。
 昭和33年11月光分社より初版されて以来、同50年に同光分社より増補新版され、同52年から筑摩書房より出版、同53年 から63年まで講談社より出版廃刊となり、ここに15年間の空白を経て西日本新聞出版部より出版されました。
 パンフを送ります。この記念碑や本やビデオが家族愛・兄弟愛の醸成なることを願っています。今、希薄化している道徳心の高揚 になることも・・・。
  (2003年12月1日 佐賀県肥前町 山口)

 


はじめまして。一昨年の年末でしたか、「大牟田」にうかがいました。三井三池のことは、行って いる間中頭を離れることはありませんでしたが、結局はその痕跡にさえ触れることなく帰ってきました。何故大牟田に行ったかと いえば、マイレージが貯まったので、当時4歳の愚息を「ウルトラマンランド」へ連れていったからです。宿泊はホテルヴェルデ でしたが、三井グリーンランドのあたりに炭鉱住宅があったということはこのホームページで知っていました。ホテルの運営が三井 鉱山であることはわかっていたのですが、やはり妙な感じでした。子供は「ウルトラマン」の世界を満喫して大満足のようでしたが…。
 私自身は昭和36年生まれですが、三井三池のことを知る同年代の者におめにかかったことはありません。私は恩師がたまたま 「三井三池!!」という人でその関連で認識しているにすぎません。ただ、大学生の時だったか卒業した後だったか、テレビで、最 も信頼していた後輩が突然第二組合に行ってしまったと、話しながら突然泣き出す元三池炭労第一組合組合員の姿を拝見したことが あったのを覚えている程度でした。
 「学ぶことは戦いである」という人達の「三井三池」はどうも空々しい。でも、そこに「首」どころか命がけの戦いがあったこと は事実でしょう。その痕跡を、結果的にか意識的にか、淡々と語っているこのホームページはなんというか、ホッとするところがあ ります。なくなって欲しくない数少ないホームページであると思います。頑張って下さい。
(2004年5月25日 埼玉県 男性)


僕は、昭和24年生まれですが、佐賀県伊万里市立川町という小さな炭鉱町で中学1年 までを過ごしました。
 立川炭鉱という山奥の小さな炭坑でした。杵島炭坑の小さな支店のようなものだったのでしょう。閉山によるリストラで多くの人 がヤマを去りました。僕の父も、北九州の八幡製鉄の下請けのような建築会社に転職しましたが、僕が高校3年の時に自殺しました。 エネルギー革命で人生を大きく変えられた人々の数は、バブル経済崩壊の比ではなかったでしょう。その後、家族は離散しました。
 子育ての最中には、自分が生まれ育った炭鉱町のことをよく話して聞かせたものです。不思議な輝きを持つ炭鉱町の子供たちの話 に、我が子も夢中で聴き入っていました。ある日、家族を連れてふるさとである立川に言ったのですが、一切の記憶が消されたよう に、町が消えていて、どこまでも続くブドウ畑になっていました。以来、僕や子供たちにとっては「蒸発した物語」としての炭鉱町 となってしまいました。
 今年の5月の日曜日に、ぶらりと万田坑を訪れました。予約なしで訪れたのですが、去りがたく、塀の破れ目から中に忍び込んで、 素晴らしい懐かしさに浸ることが出来ました。失われたふるさとが突然甦ったような感慨に、涙さえ滲みました。再度、訪れようと 思っていた矢先、突然の肺癌末期の宣告をうけてしまい、再訪は夢に終わるかも知れません。
 今後は、貴殿のホームページを訪れて、炭坑の記憶を持ち続けたいと思います。
(2004年7月24日 熊本県 大坪隆)

 


1956年から1971年まで四山社宅3区の143棟で過ごしました。
 最近年のせいかめっきり涙もろくなり、四山のことを思うとうるうるします。つい先月、母の初盆で万田にいったついでに四山は どうなっているのだろうと思い、友達の車で四山社宅跡を案内してもらいました。
 懐かしいガード下を通り抜け線路を渡ると右に曲がります。左手に削られた崖があり、少し進んで左に曲がり確かここに売店があ り貸本屋があり、焼き芋やもあったなーなどと思い出しながら進みました。しかし、なんとそこにあったのは、思い出のかけらさえ 残さない、まさにつわものどもの草の跡でした。30年ぶりの訪問だつたけど少しは懐かしいものがあるかキョロキョロしましたが、 何一つ残っていません。だいたいの勘で、3区あたりに行き土を触りながら、確かにここに俺はいた、ここで14年間を暮らしたん だと、亡くなったばかりの若かりし頃の母の笑顔を思い出しながら、立ち上がり空を眺めると遠くのほうに4つの山が目に飛び込ん できました。確かにこの風景は、私の中の心の中に刻み込まれた、30年以上前の幼い頃に見ていた景色と重なりました。頭の奥が 熱くなりました。分校、タバコ屋、2つの共同浴場、公民館、山ノ下の自転車屋、公園、床屋、組合、病院、公衆電話、もちろん海 岸、そして多くの子供たち、私の頭の中を懐かしい思い出たちがクルクル駆け巡りました。
 今は遠く鹿児島で暮らし15年以上経ちますが、故郷はやっぱり四山であり、今でも頭の中に当時の社宅の地図が書けます。イン ターネットを始めてから3ヶ月になりますが、何気に四山を検索したところこのホームがでて驚きました。これからもたびたび伺い ます。がんばってください。
(2004年8月12日 鹿児島県 男性)


私は楓町出身で、父は32名のひとりです。11.9の昨日、いろんなネットを探し、すばら しいHPに出会えました。懐かしい画像にも沢山目にすることができました。パソコンなどの機能を知らない両親にも是非見せてあげ たいと思っています。11/14は荒尾シティーモールで、父たちが集会を開くらしいです。盛会であればいいのですが・・・。私の父も 事ある毎に、「三池のことは語るな」と私に言っていました。前川さんの荒尾を離れる際のくだり、父の思いがよぎりました。
 前川さん、本当にいいHPをありがとうございました。
(2004年11月10日 北九州市 男性)

 


異風者からの通信は懐かしく見せていただいています。私も大牟田の出身で22歳まで 野添社宅にいました。掲載されている写真の社宅のお風呂のすぐ近くで両親が厚生理容所を営み姉兄と共に理容師をしていました。 今も姉や兄弟が大牟田に住んでいますので時々帰ります。炭鉱が閉山されてからの変わりゆく様を毎年見て来ましたが前川さんほ どの思いや情熱もなく、ただただ、ぺんぺん草が屋根に生え竹や木が屋根を突き破り朽ち果てていく社宅を毎年見てきました。実 家は最後まで社宅に残っていましたが、全部取り壊しと決まって野添社宅の端っこに店を移して今も営業しています。初めてのお 便りで長々と書いて済みませんでした。(2005年1月9日 大阪府 女性)


父は電電公社時代の若き日、三池闘争支援に加わり、その憶い出を今も時折、熱っぽく 語り聴かせてくれます。蔭ながら、エールおくりつづけます。
(2005年1月10日 熊本県 女性)



「港倶楽部で披露宴をおこないました、なくなるのは非常に残念です。活動よろしくお願い致します。」(荒尾市)

 「大牟田に来て4年ですが炭鉱施設などあちこち巡っています。家の前は炭住の空き地です・・・。港倶楽部は大牟田の歴史です。 ぜひ保存を」(大牟田市)

 「三池闘争は、オルグで参加した電電公社時代の父の誇りでもありました。署名させてもらいます」
(熊本県)

 「港倶楽部保存署名活動ご協力お願いのページ拝見いたしました。思い出のある歴史遺産が年々閉鎖されなくなっていくこと はさびしいことです。署名、有効にご利用ください。」(兵庫県)

 私の妻は田川出身で、廃坑となり大阪へ一家で移り住みました。だから、「筑豊の子守歌」何度聞いてもジーンときます。 前川さん、がんばってください。夫婦で署名いたします。(兵庫県)

 昨年3月、「荒木栄のふるさと探訪」で仲間とうかがいました。その時港倶楽部でカレーライス大盛りを頼みそうになり、皆に たしなめられました。存続署名小生の名前も記入代筆お願いします。(東京都)

 三池炭鉱といえば「月が〜出た出た〜」で有名ですが、荒木栄の「三池の主婦の子守唄」でも有名です。三池の名をいつまでも 残したい思いで署名します。(秋田県)

 「荒尾の実家で有明新報の記事を見て署名運動のことを知りました。大変でしょうが頑張って下さい。」(福岡市)

 「私の会社の友達などに声をかけて署名をしてもらいましたのでFAXでお送りします。その中にはお父さんが先月の閉館まで港 倶楽部に勤務されていて、港倶楽部の再開を信じいまだ転職されていないそうです。大牟田市も財政事情が最悪という状況で、 なかなか厳しいものがあるかとは思いますが、私たちの声はきちんと届けたいと思っています。」(荒尾市)  


夏休みの宿題で、炭鉱のことを調べるようになったので、調べていたところ、 ここにたどり着きました。
 炭鉱での出来事はあまり知らなかったけど、三川坑炭塵爆発事故や有明鉱坑内火災の事故を知って、大変残念な気持ちに なったし、何より以前の教訓が生かされていない後者の事故に腹立たしささえ感じました。
 私は、大牟田に住んでいて、中学生をやっています。祖父や父から聞いた話を元に、またこのホームページの写真や情報 を元に「炭鉱のここに注目!!」という題で冊子を作らせていただきました。この事故を探っていくにつれて、炭鉱とはこ んなに奥が深かったのかと、驚かされました。
 いい冊子ができ、新たなことを知れ、また深く考えされられ、自分の新たな知識になったので、すごくうれしいです。こ れからも頑張ってください。私も、たくさんの人に、炭鉱で起こった悲惨な事故、そしてその事故から学んだことを伝えて 行きたいと思います。
(2005年8月30日 大牟田市 中学生)



はじめまして、○○新聞編集長の妹です。兄の記事を見るのが楽しみで インターネットを開き、異風者からの便りも知りました。去る10月22日の兄への弔辞は、「がんばろう」の労働歌が 好きだったと聞かされました。私は兄のような物知り博士ではないので投稿する材料もすべも知りませんが、父や兄 を想うとき、異風者からの便りを開きたいと思っています。(2005年11月8日 女性)


職員組合と会社側のビラ。45年前にタイムスリップした感覚にとらわれました。
まだ、中一だった私が、こうしたビラの主張に大いに共感していたことを思い出しました。父が、職員組合の一員であったので、 当然といえば当然ではありますが、現在の私が読んでも、その主張には一理あります。たしかに、旧労(三池労組)のなかに 「階級闘争至上主義的」な狭さがあったのは事実だと思います。
 しかし、長い歴史の過程から見た真実とはいうのは、本質的に違います。三池闘争というのは、働くものの価値観が主流になる か、会社的価値観が主流になるかの「関が原の戦い」だったのです。その「会社的価値観」が勝利したことでの、今日は、どうな のかが、今、鋭く問われているのだと思います。「リストラ問題」「所得格差の増大」「凶悪犯罪の続発」・・・たしかに物質的 には豊かになったかもしれないが、私たちは、真の意味の「豊かさ」を手に入れたのでしょうか・・・。(2006.1.11 京都・M男)


よく職員労組、会社のビラまでありましたね。反面教師としては、興味ある内容です。ある意味 「ひだるか」のテーマでもあります。盛んに経済生産性や企業の存続が出てきますから。(2006.1.11 大阪・N男)


私も大牟田の出身で現在は東京で小さな会社を経営しております。三池争議のころはまだ幼くあまり 記憶にありませんが、こうして当時のビラを読んでおりますと当時は大変な時代だったんだなと改めて感じております。労使はお ろか組合同士までもがいがみあい、憎しみあい、考えられるありとあらゆる憎悪すべき日本語を使って攻撃している様は言葉では 表せないほど悲しい気持ちになりました。当時ジョン・レノンがいて「イマジン」でも流れていればなどどノウテンキなことを考 えられる時代に生きている自分に、社会に、国に感謝せずにはいられません。この世界で一番幸福な日本社会を次の子供たちにな んとか伝えて行きたいと思います。(2006.2.2 東京)


福岡県在住です。三池の争議は学校現場での教員ストや校長着任拒否闘争にも影響を与えたと すれば行き過ぎがあったのはたしかでは?暴力路線は支持を失います。社民党の凋落振りをみれば自明と思いますが、こちらの お立場は旧労?それとも新労?
(2006.2.3 福岡)


大阪の公立高校で社会の教員をしている者です。
 数年前、古書店でたまたま入手した昭和45年出版の「石炭史話(すみとひとのたたかい)」[朝日新聞西部本社編]を読んで、 石炭産業や旧産炭地に関心を持つようになりました。
 今改めて石炭史話を読み返してみて、昭和45年当時は閉山というものがまだ現在進行形で語られ、三池争議の証言者も多くが 現役の方ですね。そして取材に協力した方々の共通の思いが、「かつて石炭産業が日本の基幹産業であり、その中でどのような ことがあったのか」を、何とか後世に伝えたいと言うことだったのだろうと感じます。
 それから36年、記憶も記録も風化したんでしょうか。なんとか伝えたいですね。(2006.2.10 大阪・N)


私は昭和29年、大牟田の野添社宅で生まれました。現在、奈良県大和郡山市に 在住しています。2月21日付け日経新聞のドキュメンタリー映画「三池〜終わらない炭鉱の物語」の記事を見てパソコンで いろいろ調べている間にこのような会があるのを発見しました。私にしたら大発見という感じです、掲示版を読んでいると 子供のころの思いでが一度に込みあげてきて懐かしい思いでいっぱいになりました。昨日までは遠いはずだった故郷が急に 身近に感じる事が出来たような気分です。(2006年2月22日 奈良・男性)


はじめまして、私も定年を迎え、故郷荒尾のことが忘れられない一人です。皆さん の投稿を読ませていただき熱いきもちになっています。
 生まれは大牟田市、すぐに荒尾の炭鉱社宅に引越し18年過ごしました。原万田社宅です。
 母がいま荒尾のシティモールの裏に住んでいて2月に帰ってきました。社宅跡はこのページの写真より更に荒れて いました。非常に寂しい思いでした。
 三池争議は中学生、炭塵爆発は高校3年、父は3番方といって夜勤で寝ていて無事でした。しかし、友達の父や近所 に不幸は襲い掛かりました。つらい思い出です。でも懐かしい気持ちがおさえられず、小学校の同級生に逢ってきま した。1人だけ逢えました。嬉しかったですね。
 ちなみに学校は、荒尾第三小学校、第二中学校(今は廃校)でした。学生時代の友達にも会いたいですね。(2006.3.27 大阪・男性)


私は、大阪在住の62歳の男性です。昭和38年三池工業を卒業するまで荒尾市の西原 社宅に住んでいました。卒業後上阪、そのまま大阪に居続けて現在に至っています。
 私にとっての三池争議は、中学から高校生活の重要な部分を占めて今も心の中から離れることはありません。西原社宅から 三池工業まで自転車通学していたことも有って、三池の各社宅の中を通っての通学は「炭掘る仲間」や「がんばろう」の歌が 聞けない日は有りませんでした。
 私の父は三川鉱に勤めていましたが、例の炭塵爆発事故に遭遇し身体の自由を奪われたままの入院生活を退職まで続け 一度も退院することなくこの世を去ってしまいました。
 私も小学(荒尾二小)・中学(荒尾二中)・高校の多感な時代を三池とともに過ごしたせいか、「三池」という言葉は 郷愁を感じるなにものでもありません。西原社宅も、荒尾ダイエーとして生まれ変わったのですが、社宅の跡地を見て感無量 と言ったところでした。しかし、その荒尾ダイエーも今はもうありません。
 懐かしさいっぱいの前川さんのHPに巡り合えて嬉しく思っております。(2006.6.13 大阪・男性)


大牟田小浜町の電化社宅で生まれ、本町、新地町で育ちました。43年三池工業高校を卒業して、 現在は建設業に携わっております。子供2人も独立して、現在は大阪の堺に妻と仲良く暮らしています。大牟田は2年ごと位に 帰郷しています。大牟田には身内は誰もいませんが、帰る度にひっそりしている町並みを過ぎ去った昔を懐かしみながら、散策 しています。一度、大蛇山祭りを見たいと思っていますが、なかなか時期が合いません。幼いころ、山車を曳いた時もらった、 白いミルクアイスキャンデーの味が忘れられません。荒尾にもよく行きました。荒尾海岸、三井グリーンランド、赤田公園、四ツ 山神社、こくんぞ祭りの花火、夜店、県境のスーパー。青春の苦い、楽しい、模索の思い出ばかりです。(2006.6.18 大阪・男性)


熊日新聞に載っていらしゃるのを見つけたときに、昔からの友人がそこにいるようで、 とても嬉しくなりました。私はあまりメールもしませんし、書き込みもしません。でも、あの記事を見つけたときには本当に 嬉しくて「誰か、早く書き込みをしろよ」って思ってました。
 父が、定年で炭坑を辞めたあとに何度か引越をしいるうちに、社宅時代の写真が、無くなってしまいました。ですので、 まえかわ様のHPは、私にとってとても大事な思い出の場所なのです。
 これからもよらせて頂きます。続けてください。私みたいに、書き込みはしなくても、思い出の場所にしている人が沢山いら っしゃると思います。
(2006.7.12 元緑ヶ丘敷島社宅住民より)


先日熊本日日新聞を見て、手紙を書いています。
 私も昭和27年生まれ、楓町17棟でした。小学校2年の12月に熊本市内に引越しました。みんなが次々に転校していくのを 覚えています。また、夜逃げも。
 親父が84歳で健在ですが、三池のことはタブー?、お互い語りません。叔父二人が三池にいて、1人はバリバリの活動家、 もう1人は第二組合、最近まで親戚のつき合いも途絶えていました。三池のおかげで親戚までも仲が悪くなりました。
 「ガンバロー」のこえをあまり聞かなくなった今日ですが三池のことは覚えています。私も組合活動を少ししています。 「三池のこども」の血かな、その影響が大きいと思っています。 (2006.8.3 熊本・男性)


私は緑ヶ丘暁町53棟の社宅に住んでいました。緑が丘小学校、三中、昭和40年三池工 業高校を昭和40年卒業後、東京に勤務。今年3月で定年退職し、現在茨城県に住んでおります。
 荒尾・大牟田は私の青春時代の想い出の地です。特に荒尾は1歳から18歳までの時期を育んでくれた大切な所です。
 仲間と有明海ではバガイ貝やアサリ採り、小川では魚釣り、ザリガニ採り、小岱山ではメジロ採り、腹が減ってはアケビ や熟し柿をむさぼり、野山を駆け巡り、お金のかからない遊びで一杯でした。本当に自然環境に恵まれていましたネ。
 また三池争議は私たちの人生に数多くの実体験を与えましたネ。ただの組合員の親父は三池争議中も、その後も三池労組 員でした、昭和38年の炭塵爆発でガス患者となり25年間病院生活、20年程前に70歳で他界しました。当時を想いだすたびに 懐かしさと、60才まで生きてこれた人生の原点を語る故郷です。(2006.11.6 元緑ヶ丘暁町53棟住民)


 本日付け有明新報で知りました。
 明治生まれの父が炭坑は社宅がもらえると言って、昭和24年、三川鉱仕繰工として入坑、13年間働き、三池労組員 としてがんばってきました。そのことがきっかけで私も社会に目を向けるようになり考え方が出来てきました。
 炭坑のことを忘れまいといろんな方が真剣に取り組まれています。それらを側から少ししか協力できていませんが、身近に 感じています。なお、父は退職後63歳で亡くなりました。 (2007.7.5 熊本・67歳女性)


 自分自身も大牟田で生まれ、育ち、今は中学校の国語の教師をして おります。大牟田の炭鉱の歴史には大変興味を持っており、前川さんのホームページも時々拝見して勉強させていた だいたところです。
 きょうの有明新報の記事を拝見し、是非冊子版を読んでみたいと思いました。大牟田の炭鉱の歴史やそこで生きた 人たちの生きざまを子供たちにも伝えたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
(2007.7.5 福岡・男性)


 私は県外へ嫁ぎ、いま実家に帰っていますが、本日付け有明新報で「異風者 からの通信」のことを知りました。
 父は農業を営み炭鉱とは関係ありませんが、友人に炭鉱の落盤事故等で亡くなった者が何人かおり、また近くには有 明鉱があったこともあって、炭鉱のことに興味を持つようになりました。今や炭鉱は私のライフワークと思っているほどです。 冊子、送ってください。(2007.7.5 みやま市・29歳女性)


 「異風者からの通信」、地元の新聞「有明新報」を見て知りました。
 私自身、三池闘争を青年行動隊として闘った一人です。そして、三池大災害で被災し、かろうじて生き残ったCO 患者でもあります。自分では覚えていませんが、三川坑炭塵大爆発により坑内で倒れているところを救援隊に発見 され人工呼吸を受けて坑外へ助け上げられましたが、一時は死亡者名簿にも名を連ねていたほどだったようです。 今もなお頭痛に悩まされており、安眠剤なしでは眠られません。
 「三池闘争」「荒木栄」「三池大災害」、この三つが、私が三池で生き、闘ってきた証しです。この思いを何とか 少しでも残したい、その思いはあなたと同じです。
 「異風者からの通信」、ぜひ送ってください。
(2007.7.7 福岡・男性)


 夫は三池炭鉱で経理の仕事をしていましたが、私が36歳のとき、子供二人 を残して41歳で亡くなりました。胃がんでした。
 三池争議のときは、第二組合だったので緑ヶ丘の小鳩社宅から大牟田の親戚の家に疎開しました。あの時は本当 にこわい思いをしました。今では子供二人も立派に育ち、当時のことを懐かしく思うようになりました。本、送ってください。
(2007.7.8 福岡・76歳女性)


 異風者からの通信第2号、ありがとうございました。 「はじめに」で書いてありますように、「異風者でよか!」を貫いて下さい。支持します。
 まもなく完成する予定の私の詩集「まおろし」の中で、職制から言われた言葉に「お前が第1におるならどげんまじめに してもダメぞ。他の家族を見てみれ、子供が就職も出来んやろが」というのがあります。
 三池を離れざるを得なかった人たちが三池に居たと言うことをひたすら隠さなければいけなかったという現実を今改めて 怒りをもって確認したところです。
(2007.8.2 大牟田・元炭鉱労働者)


はじめまして。父、そして親戚の伯父たちも三池炭鉱に勤めておりました。
 小生は今年54歳。高校卒業と同時に上京し、すでにこちらでの生活が三十数年になろうとしています。四年前に父は大牟田の 病院で死去。母も二年前にこちらに引き取ってまもなく死去し、大牟田の生家もすでにありません。こちらのHPの存在はネット サーフィンの途中で偶然発見し、お気に入りに登録し、ときどき懐かしく接続させていただいておりました。
 父は三池炭鉱で守衛として働き始めた当時、野添社宅に住んでいたと聞いたことがあります。社宅事務所からしばしば流されて いた「炭掘る仲間」の歌は小生の身体に深く刻み込まれています。
(2007.9.14 東京都清瀬市・男性)


 荒尾第五中学校は平成20年3月31日をもって閉校する。
 「47の春めぐり」と閉校記念の歌に記されているが、その間約6000人に及ぶ卒業生が巣立っていった。 山間部などの過疎地とは違い、石炭産業の衰退により労働力が不要となった。その結果、昭和30年代には生徒数1144人にも達したが、 最後の在校生は70人となった私は閉校記念事業の事務局として閉校に向けた作業に携わっているが、歴史をひもとき卒業生や地域の 方々の母校への思いにふれるたびに、ひとつの学校がなくなることの大きさを実感する。そして、その作業を進めていく中でかって 黒いダイヤと呼ばれ、日本を支えた石炭産業と本校との深い関係を考える。最盛期に全国各地から貴重な労働力として集まってきた 人々。そしてその子供たちはいわゆる団塊の世代を筆頭に約6000人が本校に学んだ。閉山後、全国に散らばっていった卒業生のいっ たいどのくらいが母校の「閉校」を知っているのだろうか。それを伝えるすべがないことに気ずいた。私自身も父親が転勤族だった ため、中高時代は他県で過ごした。意識しない限り情報は入らない。万田抗を見下ろす荒尾第五中学校には48回目の春はない。 そのことをここで学んだ人々に伝えるすべがない。
(2008年1月熊本日日新聞「読者のひろば」投稿より)


はじめまして!
 私は昭和39年に勝立の社宅に生まれ、昭和45年まで住んでおりました。昔、住んでいた所が懐かしく、ネットを検索している うちに此方へ、辿りつきました。私も幼少の頃の記憶で断片的な記憶でしかなく始めは懐かしいと思いながら拝見させて戴いて おりましたが、のめり込んでいくうちに、父の生き様を垣間見たような気がしました。既に父はこの世を去っておりますので、 詳しい話を聞くことは出来ませんが、生前よく聞かされたのは、不知火に収録されている「地底の歌」の「落盤だ!」の声は自分 だと言うことでした。今でも不知火は実家(大阪)にあると思いますので、母に聞いてみたいと思います。ただレコードなので どうしましょう・・・。いずれにしても、父たちの生きてきた歴史をもっと学んでみたいと思います。
 断片的な記憶が少しずつ繋がったように思いました。これからも、頑張って下さい。
(2008.1.25 和歌山県橋本市 男性)


 生まれも育ちも福岡です。実は私の父親は福岡県警の警察官で三池争議に出動していました。 三池争議の件で父親から聞いたエピソードがあります。 当時の警察も労働者も軍隊経験者が多く、組合側も軍隊式の編成をしていた らしいです。そんな中、父の上司が「○○君、向こうで指揮をしているリーダーだけど、あれ○○戦線の戦友に似ているんだよ。 ちょっと調べてくれんか」と言われたそうです。内偵の結果、やはり戦友だったとのこと、お互いに生死を共にした戦友であったため、 その地区の警察と労働者の無用な衝突はなかったらしいです。嘘みたいな話ですね、その話を感慨深げに語っていた父も10年ほど前に 他界し、本当かどうかは確かめようもありませんでした。
でもそんな父も、のちの全共闘はボロクソにけなしていましたが、三池の労働者を心から憎むようなことは一切言っていませんでした。 惨めな敗戦を経験し、はい上がってきた世代であり、日々、命をかけて日本の復興に尽くしたことに、イデオロギーを越えたある種の 連帯感を持っていたのかも知れません。
(2008年5月13日 福岡県 男性)


貴殿のホームページを偶然に見つけ、拝見させて戴き懐かしくなりメールしました。 私は高校卒業後、三井塩業大牟田工業所鰍ノ勤めていましたが、親会社の炭鉱が小会社を潰すとの噂で塩業を辞めて東京に出てきて 現在にいたっております。私が住んでいた緑ヶ丘弥生町の社宅は、お隣が市役所の出張所で、前は長屋のマーケット(後に保育園が できる)で、近くには山の神様、炭電の平井の終点でした。炭電は昔は蒸気機関車でした。父は機関車、炭電の機関士でしたので 運転席に乗せてもらた思い出があります。緑ヶ丘小学校でのウサギ狩や、炭鉱争議、爆発等など思い出は尽きません。たまに、帰省 しますが、昔の思い出の跡がなくなり寂しくなります。今後も、末永くホームページが見れますように、ますますのご発展を祈念い たしております。
(2008.9.24 千葉県 男性)


はじめてメールいたします。出身地は大牟田で、現在は柳川に住んでいます。 さきほど、港監督の映画「荒木栄の歌が聞こえる」を観てまいりました。そのなかで、前川さんのことを知りました。
 私が住んでいたのは大牟田市の南、県境とよばれるところで、近所には社宅がならんでいました。もちろん、友達 もここに住んでいる子が多く、しょっちゅう遊びに行ったものです。しかし、若いころの私にとって大牟田はあまり 魅力的ではなく、大学卒業後に大牟田に就職してからも三池炭鉱には、ほとんど関心をもっていませんでした。
 そんな私が、三池炭鉱に関心をもちはじめたのは昨年、大学院の先生に「三池の労働者は、いまどうしているの?」 と聞かれたことがきっかけでした。それから、私の三池炭鉱研究がはじまったわけですが、知れば知るほど、その魅力 にハマッテいる毎日です。三池炭鉱には、悲しい歴史やつらい出来事も多いのですが、それをのりこえようとしてきた 方々の生き方が、なにより魅力的なのでしょうね。私は、自分の研究をとおして自分が生まれ育った大牟田が大好きに なりました。こうやって前川さんがホームページを開設していらっしゃることで全国どこにお住まいの方でも三池のこ とがわかりますよね。私も、これからちょくちょくホームページに訪れたいと思います。
(2008年10月26日 福岡県 女性)


昭和20年12月、終戦で朝鮮から引き揚げて来て、その翌年の1月、父が42歳にして 初めて会社員という名のもとに就職したのが四山坑でした。次男を亡くして涙も乾かぬ数日後の入社でした。間もなく一家は 荒尾の宮内社宅に入居しました。私は当時小学5年生でした。父は昭和28年の合理化でクビになりました。今まで仕事らしい仕事 などしたことのない、のろまな父には当然の処置だったと思いますが、いささか腹が立ちました。
 昭和38年の三川坑大爆発を聞いた時は胸が痛み、まだ四山坑に勤めていた叔父の事が目に浮かびました。義父も義兄も四山坑に 勤めていましたし、甥も一時期勤めていました。
 私は大牟田南高校商業科卒業ですが、おそらく同窓生の関係者に犠牲者がおられたのではないかとフト思うことがありますが、 知るよしもありません。父、義父、義兄、叔父ももう亡くなりましたが、地下三千尺と言われる坑内で苦労した彼らの事を改めて 偲びました。お陰で私74歳、妻70歳、義母102歳は今幸せです。(2008.12.18 熊本県 男性)


父は92歳で亡くなりましたが、昭和38年の三川鉱大爆発で被災。2日目に四ツ山鉱から 自力で脱出しました。しかし、仲間を救出するため再び入坑。結果、CO患者として、めまい等の脱力感に苦しめられた毎日 でした。社宅は野添社宅。私は米生中学校で爆発音をきき、皆で窓から外をのぞくと黒煙が上がっているのが見えました。 熊日の新聞みました。写真冊子送ってください。(2008年12月18日 熊本市 女性)


父は万田鉱に勤務。私がまだ6歳のときの昭和22年、けい肺のため37歳で亡くなりました。 荒尾の緑ヶ丘社宅桂町にいた義理の叔父は三川鉱大爆発で被災し、CO患者でした。熊日の新聞みました。写真冊子送ってください。 (2008.12.18 熊本市 女性)


父は2003年頃86歳で亡くなりました。昭和38年の三川鉱大爆発で被災。掘進工 だった父は四山鉱から脱出しましたが、CO患者となってしまいました(32名の原告団の1人として裁判で三井と 闘い、子供たちも証人としてCO患者家族の惨状を裁判で訴えた。中には泣きながら訴える子も多くいた)。あなたの お姉さんと緑ヶ丘小学校の同窓です。社宅は桂町でした。熊日の新聞みました。写真冊子送ってください。
(2008年12月18日 山鹿市 女性)


私は三井三池鉱業所の本所勤務でした。坑外の電気工として、社宅の電気配線 などの仕事をしていました。組合は三池労組だったため、1200名解雇の中の1人でした。そのとき29歳でした。 社宅は緑ヶ丘社宅楓町。三川鉱大爆発では同級生が31歳で亡くなっています。妻は天領病院の外科看護婦でしたから、 目のあたりで爆発の悲惨な状況を見てきました。写真冊子送ってください。妻と二人で見たいと思います。 (2008年12月18日 荒尾市 男性)


父は三川鉱の採炭夫として51歳の頃大爆発の被害に遭いました。その1年ほど 前にも坑内火災事故があり、その時の教訓から、濡れたタオルを口に当てて自力で脱出しましたが、CO患者として、 その後性格は一変し「ナヨナヨ」しながらの通院暮らしでした。そして爆発から16年後の67歳のとき、肝硬変で亡くな りました。写真冊子送ってください。
(2008年12月18日 熊本市 女性)


私の父親は新港社宅にあったマーケットで薬局を営んでいました。私が右京中学校1年生の 時、爆発音で校舎が揺れ、一斉に窓から外をのぞいたら黒煙が立ち上っていました。そのとき祖父も新港社宅近くを 自転車で走っていたら、三川鉱の方から材木などが自分の方へ飛んできて、恐ろしかったと言っておりました。5人程の 同級生の父親も爆発で死にました。私にも写真冊子送ってください。
(2008.12.18 人吉市 男性)


熊日の新聞を見ました。私は炭鉱とは関係ありませんが、天草にもかつていくつかの 炭鉱があり、けい肺で亡くなった同級生もいました。昔、天草郡の駅伝監督をしていたことがあり、荒尾へは行ったこと があります。そういうことから、三池炭鉱の大爆発の時は、仲間に惨状を訴えてカンパ金を集め送ったこともありました。 写真冊子送ってください。わが子供にも炭鉱の歴史を伝え、家族で話し合って行きたいと考えています。 (2008年12月18日 天草市 男性)



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