故郷に寄せる熱きメッセージ その4


私、昭和25年生まれです。緑ヶ丘のすぐ近く、山の手ストアー近くの中央区の市営住宅 で生まれ、高校を出るまで住んでいました。あなたのホームページにある、三池闘争の最中、三池労組四山支部の前で腕にダッコ ちゃんをつけている渡辺さんの横でヘルメットをかぶっている男性は、私の父です。父が組合で頑張っていたこと、子供ながらに なんとなく知ってはいましたが、その写真を今回見つけたときはうれしかったです。そして、色々なことが思い出されました。 父は大正4年長崎県の神社の次男坊として生まれました。東京の大学を出て、満州に行き、終戦により親戚を頼って大牟田へ行き ました。そこで55歳の定年まで働きました。第一と第二組合と聞くと今でもいやな思い出だけがあります。父は最後まで第一組合 でした。親戚が三井の役員だったので、ずいぶんおじ達に説得されていましたが、父が知人の借金の連帯保証人になり、その知人が 逃げたので代わりに父が返済をしなければならなくなって困っていたところを三池労組が助けてくれたそうです。だから、父は組合 を絶対に裏切れないと、頑固で真面目な父でした。三川鉱大爆発の時は、父は救助隊員として坑内に下がり、あとガスでCO中毒に かかりました。そのためずいぶん苦しんでいる父を見ました。あの時の家の中は暗かったこと、思い出すのも嫌です。でも、炭鉱 だって景気がいい時もありましたよね。若葉社宅へはそろばん習いに行ったりした楽しい思い出も一杯あります。兄の子供たちに、 おじいちゃんが頑張った三池闘争を見せます。本当にありがとう!!(2009年5月15日 女性)


万田社宅で検索したら、このサイトを見つけました。私は現在44歳。万町に住んでました。 とても懐かしく、また現在の様子を見て驚きました。子供の頃母と一緒に万田売店にいつも買い物に行ってましたし、「山ん神さん」 で遊びました。今は県外に住んでいますが、私の故郷はやっぱり荒尾。どんなになっても荒尾が大好きです。84歳の父と76歳の母が 健在です。父は三川鉱でした。(2009年6月27日)

 

三池のこと、いつまでも大切に思っていただいてありがたいことです。私も、三池魂は死ぬ まで忘れることはありません。しかし、三池闘争の時のような団結と正義は、自分の子供にさえ望めないような情勢になってしまった ように思います。労働者にとって冬の時代が一日も早く終わることを願っています。
(2009年12月16日 荒尾市 女性)


先日、弟の所から最後のミニ・ヘルメットをもらってきたので、お役に立てばと思って 送ります。現役がだんだんと亡くなられ、二世は地元を離れてしまって三池のことが忘れられていくばかり。「みいけ50年」の節目 はなんとか出来ないかと思案中です。
(2010年1月 荒尾市 女性)

 

先日父の一周忌を終えて遺品の整理をしていたら三池闘争時のビラなどが大切に保管されて いたので、前川さんに送ります。父は晩年、痴呆が出ていましたが、三池闘争のことはよく覚えていたようで、「一万円生活で子供 ら3人を育てていくのに苦労した」とよく言っていました。前川さんの集合写真の中に私の母が写っています。その母も3年前に92歳 で亡くなりました。今も元気であったなら、前川さんのお母さんのことも聞けたのに残念です。しかし、あなたのお母さんの顔は、 私は覚えています。あなたと似ていますね。(2010年1月 荒尾市 女性)


三井が昭和35年1月25日ロックアウトしてから闘争結集して就労するまでの313日間の闘いに 終止符をうち12月1日に三池の闘いをこれからも続けるぞという決意のもと、「団結、抵抗、統一」の三本線をヘルメットにはめ、 残念ながら解雇になった方々の拍手に見送られて就労したと聞いています。
 闘争中も大変だったけど、その後の差別攻撃、脱落工作の方が家族にとっても大変きびしいものでした。三池労組と第二組合の数 が逆転した後の厳しさは簡単に語ることは出来ませんが、何と言っても家族ぐるみの闘いがなかったなら、とっくの昔に三池労組は 無くなっていたでしょう。そんな中、闘いを続けてこられたのも、全国の働く仲間の連帯と激励があったからこそだといえます。夫 が定年まで三池労組員として頑張ったからこそ、私も貧しくても誇りをもって生きていけるのだと思っています。この年になると、 第一も第二もありませんが、やはり心から信頼してお付き合いをしているのは、三池労組員として頑張った人たちです。
 仲間を裏切らないということが、どんなに誇らしいことか、人を蹴落として生きて行かなければならない今の人たちには理解でき ないことでしょうね。子供や孫たちが、人間らしく生きられる社会をつくるために、少しでも貢献したいですね。
(2010年2月17日 荒尾市 女性)

 

肥後でいう「異風者(いひゅうもん)」には、「もっこす」にはない差別のニュアンスが 漂います。にもかかわらず、タイトルに掲げて、あえて「異風者…」。 前川様はじめ皆様方の強い意志にうたれています。
(2010年2月20日 大阪府枚方市 男性)


ひろしの鉢巻(三池労組)をしめた写真、喜んで見てくださった方があったとのこと、 うれしい限りです。野添社宅から、朝、合図で鳴る労働歌「がんばろう」が聞こえてくると、体を振るわせて喜びました。森永ヒ素 ミルク中毒でモノも言えなかったこの子が、一番好きだったうたでした。
(2010年3月12日 筑後市 89歳女性)

 

前川様のご両親様も仲間と共に正義を貫いて歩まれたことにきっと誇りを持って生きて こられたと思います。その証拠に、あなたは三池の仲間にも愛情を込めて郷里の思い出を今も語っておられますよね。その姿に、 尊い仲間の宝を感じます。年を重ねるごとに真の仲間がいかに大切な財産であるかと、しみじみ感じてもいます。私の夫が三池 炭鉱の煙突の模型を作りました。煙突の台座には石炭があります。お送りします。同封しました三池主婦会の鉢巻も、あなたの 母上様の形見と思ってください。
(2010年1月23日 大牟田市 女性)


熊日新聞をみました。私の夫・徳永は4年前83歳で亡くなりましたが、三川鉱で 掘進夫をしていました。三川鉱大爆発の時は一番方で坑内から上がって風呂へ入っていました。三池闘争の時、夫もよく新労に 勧誘されましたが、「三池のニュースカーをもらわないかんから新労へは行かん」と言いながら、最後まで三池労組員でした。 その報復でしょうが、争議後は田川から来た若いモンが先山につきました。その後の夫はじん肺にかかり、苦しみながらも闘争 団で裁判を闘いました。(2010年4月22日 荒尾市・84歳女性)

 

(冊子「異風者からの通信」第33号)あらためて11ページにもわたる犠牲者の名簿 をみて、怒りと悲しみがわきました。その14ページに私の父の名もありました。私のこれまで生きてきた道に後悔はありませんが、 父が生きていたなら違った道もあったのではないかと思うと本当に残念でなりません。(三池のこと)50年経ってもまだまだ関心 を持ってくださる方が多く、(三井三池三川鉱炭塵爆発)歴史の1ページに汚点として残ることでしょう。
(2010年5月18日 荒尾市 女性)


私は昭和36年まで赤池町に住んでいました。高校卒業と同時に他県に就職して現在に 至っております。会社定年後、赤池中学校の同窓会にも出席しましたが、最近赤池町のことが懐かしくなりインターネットで検索す るうち、赤池町に住んだことがある人でないと提供できない写真が多数掲載されていて、大変興味を持ちました。
 赤池町は一時代、炭坑によって栄え、小生の小・中学校時代は生徒の半数以上がその子弟であり、私の父も炭坑勤務でした。残業 の日には母の作った弁当を届けに炭坑に行っていました。住まいは炭住ではなく、いわゆる町地区からの通勤者でした。当時の炭坑 経営者は実に太っ腹で、町地区の水道代は無料、学校の運動会をはじめ、卒業や学年修業時の賞にはいつも炭坑所長名でのそれがあ りました。小生は家が貧乏でしたので新聞配達をしたり、母がボタ山で拾い集めた石炭を自宅に運ぶ手伝いをしたり、畑の耕作も 手伝った記憶が残っております。兄弟は多かったのですが、兄弟仲良く過ごしておりました。両親が亡くなった時、「この父も母も 何のためにこの世に生れてきたのだろう、何が楽しみでこれまでやってきたのだろう」と思い、心から泣きました。先年亡くなった 兄も「グチひとつこぼさずオヤジは大したオヤジだったなあ、尊敬するなあ」と言っておりました。私も「俺も全くそう思っている ・・・」と、現在でも両親を尊敬し続けています。
 ホームページの中の「クリスマス会の写真」、炭住で暮す人たちの絆・温かみが感じられる素晴らしい写真ですね。小生の住んで いた町地区には当時こういう情景は全くなかったと思います。失礼ながら、裕福でもない親たちが子供たちを集めてささやかな物、 それがおにぎりやミカンという、当時の子供たちにとって何より素晴らしいプレゼントだったと拝察できます。全く涙がでてくる感 動的な写真です。
(2011年1月22日 福岡県赤池町出身者)

 


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