みいけ50年に学ぶネットワーク


 1960年、あなたは「その時」、何をしていましたか。それとも、まだ生れていませんでしたか。あなたのお父さん、お母さん、または、おじいさん、おばあさん、「その時」、どうされていたのでしょうね。
 私は「その時」、小学校2年生でした。福岡県大牟田市、あるいは熊本県荒尾市にあった三井三池炭鉱では、三池労働争議が闘われていました。「首切り反対」「安保反対」「安全なくして労働なし」と親たちは叫び続けていました。
 「その時」から今年は50年。「1960年、その時」をもう一度振り返ってみようと考えました。



 第1回目を、2010年2月5日(金)19時から、NPO京都自由大学町家キャンパス(京都市下京区油小路通り松原下る 京都社会文化センター内)で、
     「三井三池闘争」50年、写真映像・資料をとおして今日的意味を考える
            −社宅に生活した家族の目線と立場から−
            (コーディネーター 龍谷大学・重本先生)
と題して、皆様からのご好意を得て、お話をすることができました。


 参加者は京都自由大学の会員さん約20名。30歳前後の若者2名、あとは60歳位から70歳位の方々でした。「1960年、その時」、 まだ生れていなかった人、小学校6年生だったという人、高校生だったという人、大学生だったという人、様々でした。以下は、 その方々の意見・感想でした。

 「安保闘争には関心があったが、三池闘争には抵抗を感じていた。その理由は、『三池闘争では炭鉱労働者があれだけ頑張って いるのだから、お前らももっと闘わなければならない』という上からの目線で指示されることに反発を感じていた。だから組合か ら離れていった者も少なくはなかった」(男性)

 「私は百貨店に勤めていたが、そこの組合はいわゆる御用組合だった。それでは本当のモノが言えないと感じて、第二組合を 結成した。三池に学び、カンパもしたりしたが、少人数であったことから、間もなくつぶされてしまった。団結することの大切 さをしみじみと感じた」(女性)

 「私が一番関心をもったのが、三池の闘いの中で、森永ヒ素ミルク公害の苦しみとも闘ってこられた女性のお話。私はその徳山 工場があった地域で生れ育った。私にも昭和29年生れの子供がいる。私はその時は明治ミルクだったが・・・」(女性)

 「私は今も森永製品の不買運動を続けている。森永のお菓子等は今も絶対に買わない」(70歳位男性)

 「安保や水俣病のことは今も語り継がれているが、三池闘争のことはあまりいま問題にされていないし、いまだに総括されて いないように思う。「総資本」対「総労働」と言われた三池闘争が当時なぜ起きたのか、いまこのような時代だからこそ、今こそ 考えてみるべきではないのか」(男性)

 「若い頃、荒木栄の『がんばろう』という労働歌は、よく歌ったものだ。それがいま歌い継がれていないことを残念に思う」 (男性)

 「教科書でしか知らなかった三池だったが、教科書では知り得ない話も聴けてとてもよかった」(30歳代男性)



第2回 三池労働争議50年展(2010年5月1日〜6日、ひと・まち交流館 京都)


実行委員会スタッフとその他大勢の皆さん(2010年5月1日撮影)


 来場者延べ327名。父親が第一組合(三池労組)だったという人、第二組合(新労組)だったという人、職員だったいう人、元 オルグだったという人等、それぞれの立場、思いで展示を観ていただきました。以下は、その方々による熱きメッセージです。

5月1日(土)来場者47名

 「方城、高島の両三菱炭鉱で暮していたのでなつかしく思いました。私は三池争議の頃は10歳。その頃よく両親が三池へ出かけて 行ったのを覚えています」(60歳位)

 「私は大牟田出身で、曾祖父は三井の炭坑夫でした。祖母は元教師で三池闘争に参加しました。大牟田にはかつてほどの熱気も なく、高齢化が進んでいますが、安保闘争と共に闘われたこの争議を忘れてはならないと思いました」(女性)

 「炭鉱を離れて、南米に農業移民として渡られた方が多くいるという話には胸が詰まりました」(大阪市・男性)

 「かけがえのない人間の生命を感じました。安全無視、労働者軽視の会社姿勢は今も同じですね」(無記名)

 「寄せ書きがある赤い旗に感動しました。このような時代にこそ当時の団結のこころを広く伝えみんなで連帯したい」(無記名)

 「私も中学を出るまで大牟田の勝立地区にあった馬渡社宅に住んでいました。ネットでこの50年展を知りました。また企画 することがあればうれしいです」(愛知県岡崎市・男性)

 「三井三池と必ずつきものの爆発事故のニュースはよく覚えています。いま思っても心の痛む事でした。しかし、私は労働組合 も共産党も大キライです。でも底辺で働いてこられた方々に手を差しのべるための手段と思っていました。今でも組合役員・職員 は寄生虫と思っています。そういうことから、労働歌の「がんばろう」はキライですが、「炭掘る仲間」には感動しています。(男性)

 「炭鉱の国家試験合格証、89歳で亡くなった父が大切に持っていました。いつの世も虐げられる人々はいるし、報いられない人 もたくさんいる。しかし、この石炭全盛期の時代、炭鉱労働者がいてくれたからこそ今の世があることを決して忘れてはならない と思う。炭鉱の事故やデモで犠牲になった方達に畏敬の念を感じずにはいられません」(女性)

 「『やがてくる日に』の旗に感動しました。私もそう生きたいと願い、そう生きてきたと思うからです。しかし、三池炭鉱の ことは「炭坑節」ぐらいで、ほとんど何も知りませんでした。それでもこの展示を観ていると、胸が熱くなるものを感じます。 一生懸命生きて戦った人々の記録なんですね」(京都市・女性)

5月2日(日)来場者38名

 「三池争議のこと、周りの大人たちが色々と言っていましたが、こんな大きな声が、力があったのかとを思い知らされました」 (滋賀県・60歳女性)

 「私も小さい時お世話になった叔父さんの写真を見て、すごくなつかしく、また、生き返らしたように思いました。私はいつも 思うのですが、もう一度、亡くなられた皆様を生き返らせたらと思います。皆様ありがとうございます」(東大阪市・女性)

 「子供たちの写真に感動しました。生き生きとした眼差しの目、今の社会から比べたらつらい生活だっただろうに、全くそれを 感じさせない炭鉱の子供たち」(女性)

 「僕は祖母を知りませんが、展示写真の中でその顔を見れて良かったです」(滋賀県・31歳男性)

 「最終的に閉山を止められなかったことについて、三池争議の成果と教訓とは一体何だったのか」(無記名)

 「昭和36年12月3日の就労一周年団結集会の写真やその解説文から、熱いものが伝わってきて胸がいっぱいになり、込みあげて くるものがありました」(京都市・女性)

 「半年間三池で労働者とともに過ごした若い時代を思い出しました。炭鉱労働者20万人を新しい時代の産業に転換できる契機 となったこの三池争議は後世に伝えられるでしょう。今日、ロシア、中国で同じ苦しみが云われている」(元総評オルグ)

 「現在でも社員や非正規職員を簡単にクビにする時代にこそ、闘う労働組合が必要だと思いました(京都市・20代男性)

 「いまだにみなさんがこんなことをやっておられることに驚きました。新鮮な驚きです。がんばってください」(60代男性)

 「どれを見ても胸が迫ってきます。三池闘争が、社会を見る眼を開かせてくれました。『派遣切り』や『普天間基地問題』 を見ていても、あの時代と今も基本的には日本は変わっていないと思いました。『やがてくる日に』の詩がすばらしい!」 (京都市・男性)

 「私は昭和30年代の子供時代を北九州市で過ごしました。昭和35年の安保闘争や三井三池闘争は子供心に強く印象に残って います。私は炭住ではありませんでしたが、とある社宅で育ちました。だから同じ思いを持つ者です。涙が出ます」(京都市・男性)

 「写真などを見ていて、人間らしい生き方をしていたと思いました。こういう戦いが起きる程、人と人とのつながり、自分の ためだけではなく、周りの人とのつながりで権力に対抗する力が生れたと思います。今の日本では考えられない事で、親子、友人、 お隣のみんなの笑顔がとても素敵です」(女性)

 「父は四山鉱長をしていました。浅沼社会党委員長を刺殺した右翼少年・山口オトヤは、荒尾高校出身。事件の是非は別として、 同級生のあいつが憂国の思想を持っていたのがショックだった」(65歳位の男性)

 (1960(昭和35)年10月12日、山口二矢(当時17歳)が、東京の日比谷公会堂における各党首演説会場において壇上に上がり、 浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した。理由は、日本を共産主義化しようとしている元凶に天ちゅうを下した、というものだった。 その後の11月2日、同少年は東京少年鑑別所の独房にて自殺した。同人の墓は東京都港区青山の梅窓院にある。)

 「京都新聞を見てきました。総評東京で青年対策部長をしていた32歳頃、半年ほど三池へオルグとして参加しました。部落解放 同盟のオルグが通るときは警察もサッと道をあけていたが、逆に全学連のピケ隊には容赦がなかった」(81歳男性)

 「父は医療班のオルグとして大阪から三池に参加しました。88歳で亡くなりましたが、今回の三池50年展を見せたかったです」

 「父は三池労組の事務員でした。私はその時小学校4年生でした。自宅には今も三池労組関係の新聞などがたくさん保管されて います。そんな父も94歳で亡くなりました。弟は大阪で新聞記者をしています。その名前は言えません」(女性)

 「私は小4まで三井山野炭鉱の炭住にいました。そんな関係で社宅の写真が見たくてきました。当時生活は苦しく、家計の足し にと思ってボタ山へ石炭拾いによく行きました」(男性)

 「若い頃はうたごえ運動をしていたので荒木栄のことはよく知っています。年寄りだからと言って家に引っ込んでいたのでは 駄目だと思って今も頑張っています」(84歳女性)

5月3日(月)来場者43名 (しんぶん「赤旗」記者取材)

 「私の父は新労の組合員でした。私は当時9歳。夏のラジオ体操等が第一組合(三池労組)、第二組合(新労組)と分けて行われ たことが特別に今も心に残っています。子供までが心の傷を背負わされてきたと思っています。第一組合員の人たちが、家を囲んで 暴力により社宅にいる人たちを裏切り者とののしり石を投げたりされるという写真を「三池のあしあと」という写真集で見て、 なつかしくもありました。炭塵爆発では、友だちの中にも父親を亡くして家族をバラバラにされた人もいて、いつまでも悲しいことだ と思っています。その友は今どうしているのだろうかと、いつもいつも思っています」(滋賀県・62歳女性)

 「今と昔、人のつながりが変わっていっている事が少し悲しい。今、人のために何をすべきかを考えさせられました」(女性)

 「団結がんばろう。労働運動に光あれ」(男性)

 「かけがえのないきずなで結ばれた団結と、それを分裂した工作。歴史的に貴重な体験をした人がいたことを確信しました。 こういう次世代に伝える取り組みを引き続き頑張ってほしい」(20代男性)

 「大きく歴史が流れている時代にも人の温もりがあったことを感じました。子供の時から京都で暮していたせいか、こんなに 大変な戦いがあったとは知りませんでした。歴史に残していくべき出来事です」(宇治市・男性)

 「京都博物館に来た通りがかりにたまたま寄りました。人には底知れぬ生きる力があるんだと思いました」(無記名)

 「昔、京都の高校教職員組合に属していました。ホッパーパイプを作り、それを持って死ぬ覚悟で大牟田に行くつもりで いましたが、ある事情で結局参加できませんでした」(男性)

 「1960年5月、ホッパー前で二晩座り込みました。そのホッパーへ行く途中の大牟田駅前では、ベレー帽をかぶった3人程の 男達に取り囲まれてこわい思いをしたこともありました。50年前のことですが、きのうのことの様に思い出されます。今も 年は取っても当時の闘う気持を持って毎日を過ごしています」(京都市・男性)

 「集会デモの途中に寄りました。この三池の展示を集会会場の人たちにも知らせたいと思ってチラシをもらいに来ました。 また後でゆっくり見に来ます」(京都市・20代男性)

 「時代が変わっても人間の行動が進化することがないのだと思いました。人間的には、戦前の人たちの方がずっと質が高かった んではないのかと思います」(女性)

 「三池の体験は、日本の私たちが繰り返し思い出し、学び、現在に活かして行きたいと思います」(京都市・男性)

 「私は昔セツルメントに参加したことがあります。『やがてくる日に』の詩にあらためて共鳴しました」(男性)

 「炭鉱社宅にあった保育所が警察機動隊に占拠されていた場面の写真は、資本と労働組合、家族、支援者などの関係を 象徴的に表していると思いました。こうした歴史を風化せず、現在に活かし、将来に残していくことが大事だと思いました」 (女性)

 「炭鉱労働者たちが東京でデモ行進中、通勤途中のOLが握手を求めてきた写真に、私は身震いしました。運動に参加して いなくても、そういうささやかな行動で、自分の意思を表し、伝えることができるということに感動しました」(無記名)

 「男性に混じって、女性が力強くこぶしを挙げている写真が印象的でした」(無記名)

 「私は保育士の仕事をしています。その保育所が機動隊の宿泊場所になったことに本当に心が痛みました。どんな環境の 子供たちでも平等に保育を受ける権利があっただろうに・・・。「うたごえ」の運動の中で荒木栄のうたを歌う機会が多く あり、三池のことも少しは知っていたつもりでしたが、きょう50年展に来て、あらためて戦いのすさまじさを感じました。 これから荒木栄のうたを歌う時は、また違った気持を込めて歌わなくてはと思いました」(京都市・女性)

 「三井サイドと第一組合側双方の各ビラが一番印象に残りました。双方の主張、言い分、どちらが真実なのか、部外者には よくわからない。三池争議が、政治を差し込んだ闘争になってしまったことは不幸だったのでは?社会党や総評の政治に利用 されたのでは?石炭産業が衰退して行く時代にあって、その企業が赤字となっていく中、企業が赤字を減らそうとするのは 当然であろう。そうでなければ倒産してしまうし、全員解雇されてしまう。これはその後の歴史を見れば明らか。このような 悲劇を生まないためにはどうすべきだったとお考えですか?炭塵爆発事故は別として。」(無記名)

 「久保清さんが刺殺される場面の写真、三井企業の「暴力性」を明らかにする歴史的な写真と思います。また、学生セツルメント 活動は、現在の学生に知ってもらいたいことです。会社のビラはこの争議の性格を知る上で貴重と思いました。現在の CSR(企業の社会的責任)を考える上でも貴重です。多くの人に見ていただきたいと思いました」(大学教授)

5月4日(火)来場者50名

 「ささやかな展示ですが、それだけに等身大の三池が感じられました」(京都市・男性)

 「私は50代の保育士です。展示してあった全国私立保育園連盟の機関紙『保育通信』にあった当時の炭住の子供たち の関連記事、現在では考えられないことです。世の中を変えるのは多くの民衆の力です。日本に再び社会を変える力を 創り出せることを願っています」(50代女性)

 「私も当時ホッパー前にいました。涙が出ました。ありがとう」(宇治市・男性)

 「展示してあった日刊情報を見て、1960年の三池闘争の動きがリアルに感じられました。高校生からのカンパや、ご子息 たちの就職斡旋などがあったこと、初めて知りました。大牟田市の石炭産業科学館にゴールデンウィーク中に行けなかった ので、京都でこのような企画をしていただいて有難かったです。炭塵爆発のCO中毒訴訟団の永江さんにも連絡しておきます」 (男性)

 「三池のことはあまり記憶にありませんが、父が田川市にいたこともあり、きょう来ました。」(59歳男性)

 「炭塵爆発事故によるCO中毒で今なお苦しんでおられる人の写真を見て、そのことを忘れていた自分に怒り、涙が出て とまりませんでした。社会へ出て組合活動もしてきました。その時の思いを呼び起こしました。私は当時15歳。北海道に 住んでいて、親戚にも赤平炭鉱で働いていた炭鉱夫の人もいました。三池のことは新聞、ニュース程度しか知りませんが、 後に学び、労働運動の大きな歴史をつくられたことに深く敬意を表したいと思います」(京都市・65歳男性)

 「京都で三池の展示、思いも及びませんでした。荒木栄さんの『三池の主婦の子守唄』にあるように、福島県郡山市での ト殺場反対闘争で再会したセツルの方々と共に『・・三池の火の柱・・』が拡がってゆく思いです」(京都市・女性)

 「1960年、私は三井三池ホッパー前へ医療班として行っており、炭鉱宿舎に泊まりました」(京都市・医師)

 「ふるさと荒尾を離れて51年。京都に来た翌年、三池争議を新聞報道で知りました。従兄が三池炭鉱で働いていました」 (京都市・男性)

 「私は三池闘争が終わって数年後に生れました。一般的な知識しかありませんが、展示されていた写真やヘルメット、詩など をみて、『歴史の記憶』の大切さを改めて考えさせられました。こうした問題は『生活者』の目からこそ、とらえられるべきだ と思います」(京都市・男性)

 「三池争議は聞いていましたし、荒木栄のうたは若い頃からよく歌ってきましたが、内容については知りませんでした。 この闘いが労働者の命、そして働く権利を守る闘いだというのがわかりました。こうして展示を続けて行かれることは今の 時代にとっても大切なことだと思います。ご苦労様でした」(大阪府堺市・女性)

 「私も若い頃組合活動をしていたので、だぶるところがあり、なつかしさと新たな思いがわいてきました。私はずっと京都に 住んでいるので三池争議のことは歌を通じてしか知りませんが、二十歳位の時に荒木栄さんの『地底のうた』の組曲に感動しま した」(京都市・女性)

 「全体の写真の中で、みなさんの表情が明るいのが印象的でした。やはりあれだけの闘争が出来たというエネルギーを感じ ました。組合ニュースは、ただただすごいなーです。感情だけでなく、理論的な闘争が行われていた当時の労働者の方々に 敬服です!!のぼり旗を立てた集合写真に、いま沖縄が米軍基地をめぐっての県民大会の様子がダブりました。本当は今も 闘争が続いているのだと実感しました」(宇治市・女性)

 「炭鉱労働者たちが東京でデモ行進中、通勤途中のOLが握手を求め、そのそばで男性サラリーマンが笑っている写真を見て、 当時労働者のデモが支持されていたことを感じ取りました。労働と資本の闘いがよくわかりました。貴重なものを見せていただき ありがとう」(大阪府豊中市・女性)

5月5日(水)来場者97名

 「50年展をみて、労働者・家族の一体感を感じました。現代ではそのようなことはない。昔の方がよかったのでは!」(無記名)

 「今の労働運動の状況からみても、60年頃の闘いが今の日本をつくりあげて来たのにと思うと、今の状況がちょっと情けない 感じがします」(京田辺市・男性)

 「『やがてくる日に』の詩が、三池の闘いを荷った主人公の思いをもっともよく伝えていると思う。今の時代こそ、三池の 闘いが必要ではないのかと思う」(宇治市・男性)

 「私も炭鉱を経営していた会社を定年退職しました。海の底にはまだ、強制連行された朝鮮の方々など多くの人々が眠って います。元総評議長の太田さんは私共の先輩です」(男性)

 「きびしい闘争の日々の中で、だからこそ発行されたであろう日刊情報、それが大切に保存され今日に在ることに心動かされ ました。安保闘争と連動したこの闘いの確かさがここにあると思いました。今こそ私たちが社会進歩のために学ぶべき糧では ないでしょうか。荒木栄の合唱組曲『地底のうた』を今も愛唱しながら、炭鉱労働者のかあちゃんや子どもたちのたくましさ、 真実の強さ、人間愛を思い、感動の涙を流しています。貴重な展示、これをみる機会を作っていただきありがとうございました。 『この歴史を守る灯を消さないで!』と強く思います。(京都市・女性)

 「三池争議は私が生れる前のことであり体験はしていないのですが、展示されていた各ビラを見て、三池の闘いの中で何が 語られ、何が問われていたのかを生として知ることが出来ました。あれから50年の歳月が流れ、時代は平成となりましたが、 いまなお大切にしていかなくてはならない『人間らしさ』の原点を見せてもらえた思いでした。三池の闘いで『大切にされた こと』は決して間違いではなく、2010年の今も問い続けなければならないことだと皆さんに伝えたいです」(男性)

 「激烈な闘いを、歴史をまとめられて感銘を受けました。熱い想いをひしひしと感じます。大切にして下さい」(男性)

 「私も大牟田出身です。三池争議のことを京都で知ることができたことが有難い。忘れてはならないことなので継続して 今後も開催してほしい。三池争議の事実を今の社会に活かすことが大事だとも思います」(滋賀県・66歳住職)

 「安保反対の原点をみたような気がします。その安保闘争の時は高校3年生。大阪御堂筋でのフランスデモが自分の人生 の出発点であったと思います。荒木栄のうたはその後たくさん歌いました」(男性)

 「赤旗新聞で明日まで開催されると知り訪れました。一枚一枚どれをみても目頭が熱くなるものがあります。三池の闘い は働く人の闘いの大きな力を今も湧きあがらせるものがあります」(兵庫県三木市・女性)

 「三井三池争議のとき、私は14歳(中学2年)でした。ホッパー前のビニール小屋の前を毎日通学しておりました。21歳で 神戸へ。『がんばろう』とは組合の歌だとばかり思っておりました。全税関の合唱団の人から税関の屋上で『地底のうた』を 歌ってもらったことが思い出されました」(兵庫県三木市・男性)

 「ホッパー前に執行吏は何のために派遣されてきたのだろうか。闘争を弾圧するためでしょうか?」(無記名)

 「50年前は東京で生活していました。三池闘争と安保反対の闘いの真っ最中です。その安保反対のデモ隊に三池闘争中の ヘルメット姿の炭労の人々の姿がハッキリとよみがえってきました。その後うたごえ運動に入り、荒木栄の『地底のうた』を 歌い続けています。私の人生を大きく変える『三池・安保の闘い』できょうも、これから先も闘い続ける思いを新たにした ものです」(京都市・男性)

 「私は1965年の三井山野炭鉱のガス爆発があった町の、小さな炭鉱(新山野炭鉱)で育ちました。当時の資料をたくさん 集めておられてびっくりしています。炭鉱のこと、知らない世代が多数になっていますが、そんな中とても重要な取組みだと 思いました」(女性)

 「私は15歳まで新港町社宅にいました。母はその社宅の売店で働いていましたが、51歳で亡くなりました。父は1200名首切り の1人でした。81歳で亡くなりました。展示されていた写真の中に、母が、弟がいました。なつかしいというより・・・涙が 出てきました」(大津市・60代女性)

 「バーバたちはこの時代(1960年)、三池で胸を張って生きていた。でも私にはそれがない。自分の一生において生きていたという 時代がないことは悲しい」(孫・20代女性)

 「あの時代は何だったのかを70年安保とともに考える。資料に契機を探しています。労働運動とは何なのか」(京都市・男性)

 「三池争議という言葉しか知りませんでした。もう少し学習したいと思いました。三池争議から50年過ぎたけれど、社会の 問題は変わっていないように思います。たたかわれた人々にエールを送りたいです」(京都市・20代男性)

 「60年は我が人生の大きな転機となった。その一つが三池炭鉱争議支援の活動であり、ピケットラインを張った炎天下の体験。 もう一つが安保反対で東京でのデモ行進に加わった経験である。この二つの経験があったことが今の自分をつくったことになった。 なつかしい思い出を思い返した日となりました」(京都府城陽市・男性)

 「石炭、黒いダイヤ、本当に美しい輝きです。真っ黒になりながら掘っていかれた方々の姿が浮かびます。『がんばろう』の 歌声が聞こえてきそうなたくさんの写真、資料、説明文がていねいで二世の方の手によるものと思うと胸が迫ってきました」 (宇治市・70代女性)

 「紙パ労連の1人として、王子闘争100日ストを闘った。三池闘争と共に誇りに思う。未来にかけたい」(男性)

 「今の時代も格差社会や貧困問題、沖縄のことなど、50年前と変わらないと思いました」(京都市・男性)

 「高度経済成長の裏には沢山の人々の犠牲があったことを今さらに怒りと共に実感しました。今も成長の影で沢山の人々が 犠牲になっていると思うと、姿・形は変わっても中身は変わっていないと思いながら展示を見せていただきました。そういう 意味からもきょうの展示は素晴らしいと思います。来てよかったです。私は中学生の頃、近所のおじさんによく荒木栄のレコード を聴かされていました。こんなにも沢山の犠牲者が出ていたこと、CO中毒で苦しんでおられたこと、三池炭鉱のご子息の方々 が今も三池を思い続けておられること、色々知ることができました」(京都市・女性)

 「今の日本は格差社会で、団結力がなく完全な個人主義、こころが貧しい。三池の人のこころは素晴らしい。人としての 生き方がある」(京都市・女性)

 「50年前の日本の労働者の闘いが生き返ったと思った。沖縄の人々の闘いが結びついてくる。よく保存して、よく展示 されました。感激します」(京都市・男性)

 「『やがてくる日に 私たちは正しく生きたといわれよう』という闘う主婦の一節が特に印象に残りました。私も紙パの 闘いの経験者の1人です。もう老兵です。何とかみんなに付いてきたことだけは誇りに思います。荒木栄の『地底のうた』を 聴いて涙が出る年齢になってきました。この『50年展』を見せていただき、私自身激励されました」(京都市・85歳男性)

 「今回誘われて来ました。私は住込み店員として社会的な大きな出来事はいつも遠くに感じて過ごしてきました」(無記名)

 「写真にあった『去るも地獄 残るも地獄』の言葉が印象的でした。今も昔も同じような状況が変わっていない」(枚方市・男性)

 「青空保育園の写真を見て、闘争の中でも子供たちを守る姿が、単に大人だけの闘いでないということを感じさせられました。 私は三池闘争の後の世代のため、断片的にしか知りませんでしたが、三池闘争を少しだけでも勉強することが出来ました」 (京都市・45歳男性)

 「50年展の名称が、『闘争』ではなく、『争議』とあるのが残念です」(神戸市・60歳代男性、京都市・50歳代女性)

 「昭和40年頃、私が勤める電電公社に三池炭鉱の離職者が来られたことがありました」(男性)

 「三池の思い出は貧乏なことばかりで、いい思い出はない。母は選炭場で働き、父は三池製作所で働いていた。私は学校 を卒業すると、ふるさとから逃げるようにして京都に出てきた。だからふるさとになつかしさはない」(京都市・50歳代女性)

5月6日(木)来場者52名(最終日)

 「5月5日付けの「しんぶん赤旗」の記事でこの展示を知りました。当時少年・少女であった方々が、沢山の資料を引き継いで おられることに驚きです。私は永くうたごえ活動の上で三井三池争議を知っているぐらいでした」(吹田市・女性)

 「60年安保の年に三池闘争があったことが知られていないので、ぜひ多くの人に知らせてほしいと思います」(無記名)

 「三池の闘いの写真をみせていただいて有難うございました。1人でも多くの人にみていただきたかったのに誘うことが できなくてすみません。今の時期に三池の闘いの写真展を開催されたことに敬意を表します。非正規雇用者が半分を占める 労働者の実態がある中で、労働組合のあり方を根本から考えなければならないと思います。三池の闘いに学び、労働者が 安心して働き、安心した生活を勝ち取るために活かさなければと思います」(無記名)

 「知り合いから展示会の知らせをいただきました。『三池争議』という言葉を少し聞いたことがあるだけだったので、写真や 文章などをみてびっくりしています。30代半ばの京都育ちの私としては炭鉱というのは遠い遠い存在です。何を書けばよいもの か言葉が出てきません。今度また企画される時はご連絡ください」(京都市・30代男性)

 「大学時代に三井三池闘争を知りました。今でも『三池の主婦の子守唄」など大好きで口ずさんでいます。福祉施設である 保育園まで(国家権力が)奪っていたという事実に衝撃を受けました」(京都市・女性)

 「赤旗の寄せ書き等に当時の生の声を聴きました。労働運動の歴史を大切に受け継いでいきたいと思いました」(京都市・男性)

 「写真の中の労働者・家族の顔、顔、顔、いい顔ですね!今また、原爆の歴史のように、日本の大企業の横暴さ、金儲けの ため人間を使い捨てにする世の中で、若い人たちに伝えていく大切さを感じました。荒木栄さんの『子どもを守るうた』を 大阪うたごえ『ピース・コール』で歌っています!」(芦屋市・女性)

 「炭塵爆発で亡くなられた人の写真に衝撃を受けました。儲けのためには殺人も犯すという資本の論理の生々しい姿を 目の当たりにしたからでしょうか。久しぶりに三池の闘いを思い出しました」(神戸市・男性)

 「どの写真も、どの展示品も三池の労働者の息吹きがこもっているような気がして胸を打ちます。三池の闘いが私に多くの ものを残してくれました」(舞鶴市・男性)

 「写真の展示の流れで、闘いの写真から明るい写真に未来への希望が見える思いでした。闘いの記憶、その中での思いを 語り継ぐことは明日の基になる大切なことです。感謝します」(元立命館大学の先生)

 「他の各地でも開催があると少しでも多くの人に知ってもらえるのではと感じました」(京都市・男性)

 「中学から大学まで荒尾市にあった大平社宅に住み、当時を思い出しました。父は警察官で『税金ドロボーの子供』と ののしられましたが、今はそれも立場からと理解できます」(京田辺市・男性)

 「60年代の三池労組のうたごえ行動隊、荒木栄の指揮を思い浮かべました。私のうたごえ運動の原点が荒木栄でした。 全体的に素晴らしい写真と展示品で、関係者の収集力の素晴らしさに驚いています。もっと多くの人たちに観覧して もらいたいと思いました。60年安保と三池闘争は一体のものであったことを改めて感じました。感謝申し上げます」(京都市・男性)

 「15歳まで大牟田に住んでおりました。父は三井染料化学に勤めていました。叔父が三井鉱山の古川係長でした。中友 小学校6年のとき、爆発がありサイレンが鳴り響きました。その時「炭鉱の子は帰れ」と校内放送がありました。ふるさとの こと、もっと学ばなくてはと思いました」(奈良県・58歳女性)

 「大牟田市白川に住んでいました。夫が三池争議で吊し上げされたことがあります。その時の思い出は今も語りたくあり ません」(84歳女性)

 「南関町出身です。三池高校から法政大学に進みました。三池争議は遠くからしか眺めていませんでしたが、心の中では いつも応援していました。東京での予備校生時代、三川鉱爆発を新聞で知りましたが、そのときの私の日記には『このうらみ いつかはらしてやる」と書いていました」(神戸市・67歳男性)

 「三池の闘いの記録の展示ということで期待してきましたが、そのすごさ(展示に貫かれている『思想』等々)にただただ 圧倒され敬服するばかりです。関係者の皆様に心から敬意を表します。三池の闘い、働く人々の暮し、爆発事故、久保清さんの 死・・・絶対忘れてはならない、永く永く語り継がれ、記憶されるべきとあらためて強く強く感じた次第です。ありがとうござい ました」(男性)

 「夏の高校野球での三池工業高校や冬の大牟田高校の駅伝の活躍をみるにつけ、粘りや頑張り、連帯・団結が受け継がれています ね」(無記名)

 「60年の7月15日に京都を列車で発ち、オルグとして三池に参加。なつかしさで写真をみていました。ただ、50年も経つと 記憶もはっきりしなくなりましたが・・・」(男性)

 「『やがてくる日に』の旗に感動しました。とにかく文章がすごい。自信と希望に満ちている。また、男の闘いを支えた主婦の 笑顔が楽天的で素敵でした。いま労働組合の役員をしていますが、大きな励ましと闘うことの確信を得ました」(無記名)

 「(炭鉱社宅の)保育園が機動隊に占拠だれ、子どもたちが追い出されたと書かれたキャプション、涙が出ます、腹が立ちます。 夫が大牟田出身で小さい時の話をよくしてくれます。夫の父は三池争議の前あたりに炭鉱の事務をしていたとかで、残された 手帳に国会要覧のことなどが書かれています。夫の父は30年ほど前に亡くなり、顔をあわせることが少なかった義父ですが、 人間の尊厳を大事にする人という印象が強く、尊敬していました。今回の展示でますますその思いを持ちました」(京都市・女性)

 「60年安保闘争と三井三池闘争は今に続く労働者の闘い、平和の闘いの原点を築いたのではなかろうかと思っています。 この写真展をみるにつけて、さらに認識をあらたにしました」(京都府木津川市・男性)

 「三池の闘いが始まった頃、私は高校卒で○○公社に入りすぐ労働組合運動に入りました。この労働歌『がんばろう』を 合唱し、何度こぶしを突き上げて『団結』を確認したことか」(大阪市・67歳男性)

 「私は熊本の出身で、親類が荒尾の炭鉱で死んだこと、少し聞いていました。荒木栄のうたは今でも歌うと力が湧いてきます」 (女性)

 「60年春、自治労、京都府職労、京都総評のオルグ団の1人としてホッパー前のビニール小屋や三川支部等に合宿した。 闘争から学ぶこと、労働者の連帯など、沢山の宝をもらった。歌の好きな私は荒木栄さんのうたをいっぱい教えてもらった」 (京都市・男性)

 「31歳の時、京都府庁から二度、通算で半年、三池へオルグで行き、万田社宅やホッパー前のビニール小屋に泊まりました。 そのとき記念にもらった三池労組の鉢巻やホッパーパイプ、団結旗を持ってきたので差し上げます」(84歳男性)

 「父親が大牟田地評病院の医師でした。私はいま風来坊のようなものですが、京都に住んで早31年になります」(昭和35年生まれの男性)

 「昭和35年、29歳の時、京都からバスで三川鉱ホッパー前における西日本うたごえ祭典に参加したことがあります。 ビニール小屋に泊まり、荒木栄にも出会いました」(京都市・77歳女性)

 「知人に三池争議に参加した方がおられました。闘争終結後、生駒市におられましたが、長男は精神を患い亡くなり、父親も 脳卒中で寝たきり後亡くなりました。CO中毒の影響もあったのではと思いました。奈良や大阪でも開催して下さい」(生駒市・女性)

 「長崎から佐賀の北松炭田を父母たちと転々とした。数十年を経てその地を訪ねると原野や森となっている。あの当時の 賑わい、活気が幻のようだ。母たちの炭婦協での行事なども思い出しました。暴力団が労働者のピケに襲いかかる写真をみて、 組合分裂の手法は今も昔も変わらないものだと思いました。」(枚方市・男性)

 「父は三井本社から三池争議のため大牟田に出張しました。三池にいる時は腹に本を巻きベルトで押さえていました。 つるし上げされた時はトイレにも行かしてもらえずに皆の前でお漏らしをしたこともあったようです。父は三池争議後もよく 夕食後になると一人部屋に閉じこもり頭を抱えチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をかけていました。私もそんな父の 悩んだ姿が忘れられず、大きくなってその曲を聴くとイライラし体調を崩すことがありました。しかし、そんな父が亡くなると、 不思議と私の体調の変化も無くなりました。父は三池争議以前、自身が組合活動に関わったことがあり、両方の立場が理解できて 悩んでいたのかも知れません。昔、別の炭鉱のことだと思いますが、竪坑の昇降機のベルトが切れそうだと当時のGHQや政府に 何度も進言したことがあったようで、しかし無視されたためにそのベルトが切れて死傷者が多数出る大事故になったことがあった ようです」(大阪府・60代女性)

 5月2日、「言いたいことがある」と言って、酒の臭いをプンプンさせた61歳の男性が来場。「炭鉱は三池炭鉱ばかりではなか。 なぜ筑豊の炭鉱のことも紹介しないのか」と言ってきた。よく話を聴くと、「父親は大正5年生まれ。酒の飲み過ぎで私が4歳の とき36歳で亡くなった。だから今から言うことは母親から聞いた話なのだが・・・」と前置きしながら、次のとおり語り始めた。
 「父は戦時中憲兵だった。そのため戦後は社会から追われ、金峰山(きんぽうざん、熊本市、標高665m)で木こりとして過ご した。しかしある時、戦犯として警察が来て父を巣鴨プリンスへ連れて行った。理由は、戦時中、日本の炭鉱で強制労働をさせ られていた中国人を射殺した罪だった。しかし取り調べでは絶対に口を割らなかったので間もなく釈放され、福岡県嘉穂郡桂川 (けいせん)町にあった小炭鉱で働くことになった。そこでは発破の仕事をしていたが、右翼の親分でもあった。その時代、炭 鉱に多くいたアカを出すのだと言って、『反共』と書かれた旗をはためかせて活動していた。だが酒飲みであったため36歳で病 死。その葬式では、『同じ死ぬなら、なぜ落盤やトロッコの下敷きになって死ななかったのか。そうすれば家族に補償も入っ たのに、酒飲みで死んだのでは一銭の徳にもならない』と母親が嘆いた。父の死後、私たちはすぐに炭住を追い出され、ボロ長 屋に引っ越した。水道も無く、田んぼの水をろ過して飲んだ。電気は無く、ロウソクで明かりをとった。炊事の燃料は、ボタ山 から拾った質の悪い石炭を使った。食べるものも満足になかった。それを見かねた親戚が私と兄の2人を引き取った。下の弟2人 は母親と暮した。下の弟は、国鉄山田線に走る機関車の汽笛が聞こえると、『あの汽車に乗って、にいちゃんに会いに行く』と 言ってよく泣いた。こんな私も故郷がなつかしく、父の写真が展示されていないか見にきた。ここに来たのは3回目。」と言い、 最後には、「話を聞いてくれてありがとう。胸がスッーとした」と言って帰っていった。(京都市・61歳男性)

 「名前だけでよいからと言われて、たまたま全気象労働組合(略称・全気象)の大阪分会長になり、1960年7月20日から同月 23日までの3日間、オルグとして三池に参加しました。しかし、それはそれとして、三池闘争参加はその後の私の生き方を大きく 転換させる影響が大であったことは事実です」(高槻市在住・男性)



第3回 映画「三池の闘いと向坂教室」 京都試写会
(2011年4月23日 京都社会文化センター)

(2011年4月23日撮影)


 参加者延べ24名。その内訳は、元三池労組員、映画監督、大牟田の人、炭鉱そのものに魅力を感じている若者、ジャーナリスト、 神戸の社青同の人、国労の人、大学の先生など様々でした。以下は、その方々による意見・感想です。

 「三池闘争がどこに引き継がれて行っているのか。その受け皿が今あるのか」 (50歳位女性)

 「労働組合という言葉はもはや死語となっているのではないかと感ずる今、こういう映画は教条的過ぎるのではないか」 (65歳位男性)

 「福島原発事故が、三井三池三川鉱炭塵爆発事故を思い出させた」 (60歳女性)

 「本質は資本と労働だが、原発事故が起きた今、資本と社会という図式を考えなければならない時がきた」 (大学教授)

 「熱く今を語れない時代の中、よくぞこのような映画を制作上映してくれた」 (65歳位女性)

 「第二組合に行った兄が死ぬ前病床で、『第二へ行ってすまなんだ』と言い残して死んで行ったことを思い出した。そんな兄に 対し、『悪いのは会社だ』と言って許した。我々は決して物取り主義で闘ったのではない」 (元三池労組員)

 「大学でロシアを学んで炭鉱に興味を持つようになった。向坂先生の生の声が聞けなかったのが残念」 (37歳男性)

 「JR福知山脱線事故、その繰り返される歴史の中で、闘うことの意義をあらためて考えさせられた」 (男性)

 「三池闘争の大きなうねりは今消えてしまったかのようであるが、その思想は今どこに受け継がれているのか」 (女性)

 「かつての三池の闘いを、現代の情勢にどのように伝えて行ったらよいのか」 (男性)

 「闘うことをあきらめたかのような現代。かつてはなんと熱い闘いがあったことか。後の我々はそれを利していないのではないか」 (男性)

 「三池闘争の歴史がよくわかり、これからの私が生きる指針が見えてきた」 (60歳代男性)



 「三池労働争議50年展」を今後も続けていきたいと考えています。開催のご希望がありましたらご連絡ください。
                    maekawa@hasiru.net

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