三井鉱山新港町社宅 その2


 昭和20年終戦末期、父はすでに病死し、母や長兄に手を引かれて逃げまどっていたのは私が5歳 の時でした。戦後、その長兄が三井三池の鉱山学校第1期生となったお陰で原万田社宅に住むことが出来ました。その後、ボタ の埋め立てで出来た「新港社宅」という街に移転。「新港社宅」は、本当に良かった。極貧中の極貧でしたが、みんな暖かくて、 「おるかん」という声が聞こえたときにはすでに家の中に上がっていて、茶碗の中まで覗かれているような状況でした。調味料 や食品の貸し借りは、当たり前のように行われていました。
 そのうちに私も三川鉱に採用され、20歳になった頃にもらった新港社宅が今でも忘れられません。潮止め堤防の先は、有 明海の潟海です。私は坑内の仕事から帰ってくると殆ど毎日のように堤防に上がりその潟海を見つめていました。しかし、そ のなつかしの新港社宅も閉山前から廃止され、貯炭場となりました。今では、残り少なくなった貯炭の山と、決して風化する ことのない、黒い地面があるだけです。この地に立つと生まれた場所ではないけれど、本当のふるさとのような気がしてなら ず、鳥肌が立つくらいの懐かしさが沸きあがってきます。その地は三池海水浴場の2キロくらい手前にありました。
 私は三池の炭住で育って本当に良かったと思っています。貧しい者同士の助け合いを身をもって体験出来、それが今も心の 底に薄れながらも消えることなく存在しています。
(伊藤さん)

 

電柱には「会社は住民と十分話し合え」の張り紙がある(写真提供者:柳田さん)

(写真提供者:柳田さん)

社宅にあった「山の神」(写真提供者:柳田さん)

社宅共同浴場(写真提供者:柳田さん)

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