新日本窒素水俣労組支援闘争


 昭和37年4月、新日本窒素鰍フ提案した安定賃金協定に対し、新日本窒素水俣労組は争議に突入。 これに対して会社側はロックアウトで対抗。争議は翌38年1月までの183日間という長期間に及んだ。その間、組合は第一組合 と第二組合に分裂。旧労に残ったもの2458人、新労に行ったもの992人。争議は親子兄弟だけでなく、商店街など市民を巻き込 む大争議へと発展していった。この図式はかつての三池大争議と全く同じものであった。
 この「安定賃金闘争(安賃闘争)」に、旧労からの支援要請により、三池労組からも4202人がオルグとしてピケに駆けつけた。

(参考)
 昭和31年4月、新日本窒素水俣工場(現チッソ)が不知火海に垂れ流ししていた工場廃水により、熊本県水俣市を中心に水銀 中毒患者が続出した。認定患者だけで2千人を超す日本最大の公害病として、その罪は今なお問われ続けられている。
 しかしこの時、新日本窒素水俣労組は水俣病患者問題には関心を示さず、その後反省の意味から「恥宣言」を出した。 昭和38年発生した三井三池炭鉱三川坑炭じん大爆発事故でのCO中毒患者と共闘する三池労組の姿に影響を受けたという。

(写真提供 渡辺さん)

 新日本窒素水俣工場正門前。左、緑ヶ丘桂社宅におられた故・永田さん。 「東京にオルグに行って帰った後、すぐに水俣にオルグに行ったときの写真」だという。

(写真提供 渡辺さん)

 窒素水俣工場正門前にあった旅館。オルグの三池労組員がここでよく食事をしたという。

(写真提供 渡辺さん)

 水俣市の労働会館で行われた演芸会。三池主婦会が水俣労組激励のために開いた。

昭和37年、合化水俣労組支援。水俣駅前にて(写真提供 織田さん)

 

合化水俣労組支援。宿泊先にて。三池主婦会からも参加した。(写真提供 河口さん)

 

BACK NEXT