三池の炭っ子   福岡県大牟田市新港町 (写真提供:東川さん)


 三池争議の闘いの中から生まれた「三池のこども」という作文集がある。昭和35年8月30日、新読者 社から出版された。三池争議の真っ只中の時である。

 同作文集は、新港社宅のこどもたちの作文集「はと笛」や三池労組機関紙「みいけ」などに発表された作品の中から編集されて いるため、読む者にとっては違和感を感じる人もいるだろう。しかし、当時のこどもたちに三池の闘いがいかに大きな影響を及ぼ していったかを知ることが出来る貴重な歴史の記録でもある。

 三池の闘争は、闘っている者の人間関係を大きく変えたと言われた。それは、志(こころざし)を同じくする者同士にあっては その関係を一層親密にしたが、一方、敵対したがためにそれまで隣人であった人間関係は泥沼化した。

 そんな中、社宅の中に「炭っ子グループ」「仲よしグループ」「山の子グループ」など、新しい人間関係が形づくられていった。
 写真"三池の炭っ子"の提供者・東川さんの話によると、「炭っ子グループ」は、三池に移住した与論島出身者を親に持つ新港社 宅のこどもたちが自主的に組織したグループで、メンバーは同写真に映っているだけの少人数グループであったが、その特徴は文 学や演劇、音楽等に興味を持つ小・中学生の集まりであったという。その中心的人物であったのが裾分照(すそわけ・てらし)と 言い、高校生になると同人誌を創るなどして文学面で頭角をあらわしてくるが、惜しくも、24歳の若さで亡くなった。

 東川さんは「新港社宅の人間関係は私にとってユートピアであった」と語る。炭っ子グループ・メンバーの或る家に誘われて遊 びに行くと、それまで聴いたことがないクラシックやジャズ音楽が流れ、ある種のカルチャーショックを受けたという。遊び疲れ てお腹がすけば、一つのインスタント・ラーメンを分け与え、上級生は特に下級生を大事にした。その人間の温かさは、同じ炭鉱 社宅であっても新港社宅は特別であったという。 

 「姉ちゃん、姉ちゃん、第二組合が団体で荷物をとりに来たよ、はよ、はよ」と玄関の戸をガタガタ させながら、妹が入ってきた。私はすぐ「幸信ちゃん方も荷物を取りにきたね」と聞きました。そして、靴もそこそこに私は走り ました。
 ・・・・・その幸信ちゃんの顔が、第二組合の自動車の中に見えました。私たち"炭っ子"グループは急いで、幸信ちゃんのそばに 走っていきました。そして、みんな、それぞれ言いました。「幸信ちゃん、帰っておいで、幸信ちゃんだけでもよかけん。ウチたち は元気のよかグループつくったよ。早く幸信ちゃんもこのグループにはいらんね。ね」と。
 ・・・・・幸信ちゃんは「帰ってきたかばってん・・・」と小声で言いました。するとうしろでおばさんが「幸信」とにらみまし た。私たちは「幸信ちゃん、幸信ちゃん、握手すい、握手すい」と手をみんなさしのばしました。幸信ちゃんは、こわごわ私たちの 手を握りました。
 ・・・・・第一組合、第二組合が元の一つの組合にもどり、今から先の美しい、平和の日本を築き上げてください。それを私たち 子供たちは心から願っているのです。
 (右京中二年 女子、作文集「三池のこども」より)

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