「平和の誓」像〜彦根初等朝鮮人学校跡を探る


 1949年11月8日付け朝日新聞に「県では先に朝鮮人経営の五校を閉鎖したが、さらに七日午前八時を期して 大津、米原、彦根の三校に閉鎖命令を交付した」とあり、同年12月10日付け記事では、「十一校全部が閉鎖 県下の朝鮮人経営学校」、さら に、1949年12月16日付け朝日新聞に「彦根市の朝鮮人学童教育問題は円満に解決して去る七日から五十二名が城東小学校に編入、課外 の朝鮮語教授も週五回ずつ行なわれている」という記事が掲載されてある。彦根初等朝鮮人学校がどの辺りにあったのか、探索してみた。


旧彦根市安養寺町(2012年2月22日撮影)

 彦根市安養寺町にあったとされる彦根初等朝鮮人学校。その安養寺町を訪ねてみた。
 「安養寺町」は藩政時代の町名で、現在の「京町一丁目」の中に入る。古くから大工や板屋根葺きなど計一四種の職人が多い町屋地区であった ことが知られている。ここで代々製麺所を営む老婦人に尋ねてみた。
 「この辺に朝鮮人学校があったということは知りませんなあ。ただ、近所には平成6年頃まで六軒ほど朝鮮の人たちの家がありました。他にも 彦根駅前に建ち並んでいました。この辺に朝鮮の人たちが多かったのは、終戦前、彦根駅裏側の山手にあった野沢石綿工場に徴用されてきた朝鮮 の人たちが、この辺りに住み着いたと聞いています。その後は鉄屑や古新聞などの回収業で一旗挙げた人もいました。しかし、今残る朝鮮の人の 家は一軒のみとなりました」。
 「野沢石綿セメント」とは、今の彦根市がまだ犬上郡青波(あおなみ)村と呼ばれていた1935(昭和10)年に兵庫県の会社がつくった「昭和 セメント」が最初で、その石灰山鉱山は犬上郡芹谷(せりたに)村(現・多賀町)にあった。のちに住友セメント彦根工場となり、平成8年に閉鎖。 現在同所は高級住宅地となっている。

彦根市立城東小学校の「平和の誓」像(2012年2月22日撮影)

 先の「安養寺町」から徒歩5分ほどの所にある城東小学校。この校舎内に、「平和の誓」像がガラス・ケースに 入れられて大切に保存されている。「寄贈 1961.7 朝鮮民主主義人民共和国 彦根帰国集団」というプレートがあり、1961年7月22日、関係者が 参列して盛大な除幕式が行なわれた。そして、「日本の皆さん長らくお世話様でした」と、子供たちは言い残して帰国して行った(昭和36年7月22日 付け中部日本新聞)。

 ガラス・ケースには「この平和の誓の像は、城東小学校には昭和44年まで朝鮮人学級がありました。この像は、朝鮮民主主義人民共和国に帰国され た時に学校に寄贈されたものです。この作品は当時滋賀大学教育学部教授 故 伊室重孝(いむろ・じゅうこう)先生の手によるものです」という説明 書きがていねいに貼り出されてある。同校では、記念像のいわれを、「児童たちにはもちろん、新しく赴任してくる教員にも話して聞かせています」と いう。

 なお、1955(昭和30)年の滋賀県在住朝鮮人(韓国・朝鮮)人口によると、彦根市374人であったが、1960(昭和35)年108戸362人、1965(昭和40)年 272人、1984(昭和59)年337人、1996(平成8)年331人、2010(平成22)年262人、と推移していった。2012年2月現在の城東小学校在日児童は「ゼロ」。

彦根市立城東小学校卒業アルバムから

 「平和の誓」像は最初校舎正面の庭に建立されてあった。過去の卒業アルバムにも「平和の誓」像の写真 が登場していたが、1983(昭和58)年度を最後に卒業アルバムから消えた。
 他に、城東小学校発行「昭和36年9月26日付け 城東新聞」や彦根市立城東小学校創立120周年記念誌「輝きて」(2006年11月1日発行)、1980(昭 和55)年8月の朝日新聞滋賀版5回シリーズ連載の李圭台(リ・キュテ)氏による「民族の誇りを伝えて−聞き書き湖国私史」に、「平和の誓」像 のことが紹介されてある。

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