醒井小学校民族学級  旧滋賀県坂田郡米原町


 滋賀県坂田郡米原町(現・米原市)醒井(さめがい)地区の東西に流れる丹生川。その清い水は、標高1,094メートルの 霊仙山(りょうぜんざん)の北嶺から湧き出る水を源流とし、丹生川を成して天野川を経、琵琶湖に流れ込む。そんな丹生川沿いに、かつて朝鮮人たち の家々が建ち並んでいた。この地の石灰鉱山で労働者として、米原町の産業経済に寄与した人たちである。
 その子弟たち40人ぐらいが、1946(昭和21)年、醒井小学校の中に設立された醒井初等朝鮮人学校で学んだ。しかし、間もなく総司令部(GHQ)により 強制閉鎖。そこで困った朝鮮人教師が醒井村長に民族学級の開設を懇願し、1950年4月、醒井小学校の教室を借りて二クラスの民族学級が開設された。 「朝鮮の子らは昼間私たちと同じ教室で学び、放課後は別の教室で母国の言葉などを勉強していたようだ」。当時の様子を知るお年寄りの話。 しかし、同校民族学級は1970年頃閉鎖された。

「昔はこの辺り、朝鮮の人がたくさんおってな、川沿いにバラックの家を建て、石灰山の鉱山で働いておった。『醒井に行けば仕事がある』と聞いて、 福井県の敦賀方面から来たそうな。石灰岩を積んだトロッコを一生懸命押しとった。その頃の醒井小学校には、その人たちの子供がたくさんおった。 学校の体育館の一部を使って朝鮮人学校が開かれていた。そんな彼らの楽しみは、毎年2月の旧正月に、色鮮やかな民族衣装で着飾り、鐘や太鼓を鳴ら して町内を練り歩くことやった。朝鮮戦争(※1950年−1953年)が起こったときなんか、同じ朝鮮人同士、北と南に分かれてけんかもあった。そのとき やったと思うけど、戦車1台が醒井にやってきたときはびっくりしたな。そんな彼らも昭和35年頃には帰国事業でほとんどが朝鮮へ帰って行った。今頃 皆どないしておるやろ。」

 「同じ朝鮮人同士、北と南に分かれてけんかがあった」。その証言は、湖国の二大騒乱事件と呼ばれている中の一つ、「醒井事件」を指しているもの と思われる。
 旧米原町醒井で1952(昭和27)年6月11日に米原警察署醒井派出所に南鮮系の韓国人が保護されているのを見つけた北鮮系朝鮮人7人が同 派出所に乗り込み騒動となった事件。その判決は1960(昭和35)年5月9日、大津地裁にて結審となり、31被告がいずれも執行猶予1年付きで懲役1年から 懲役3月の有罪判決となったもの。しかしその判決の冒頭、裁判長は「警察側が北鮮系と民団系の差別をつけて、双方の対立の鎮圧にあたったこと。また、 わずか6人の容疑者を捕らえるのに250もの警官を出動させた警察の行動は遺憾である」(昭和35年5月10日付け京都新聞)と付け加えた。
 その後、有罪となった朝鮮の人々の多くが苦い思い出を残して朝鮮へ帰国していった。

 なお、1955(昭和30)年の滋賀県在住朝鮮人(韓国・朝鮮)人口によると、坂田郡醒井村268人、坂田郡米原町253人であったが、1960(昭和35)年、 両町村合併による米原町77戸351人、1965(昭和40)年米原町177人、1984(昭和59)年米原町68人、1996(平成8)年米原町37人、と推移していった。

 米原町の産業経済に寄与した朝鮮人労働者たちの歴史は、地元のお年寄りの記憶には残っていても、公式な記録としては残されていない。米原市教育委員 会も醒井小学校も無関心を装う。


(写真提供・滋賀朝鮮初級学校)

 1946(昭和21)年に醒井小学校に民族学級を開き、その後旧米原小学校民族学級担任を経て湖北朝鮮初中級学校校長など を歴任された李圭台(リ・キュテ)先生(故人)と子供たち。撮影場所は醒井小学校の裏山。正面に国鉄醒ヶ井駅と上田石灰鉱山が見える。

醒井小学校(2012年2月20日撮影)

 右、醒井小学校校舎。左、枝折川。朝鮮人鉱山労働者の集落があった丹生川へ続く。正面の山肌がJR醒ヶ井駅裏の 上田石灰鉱山跡。

丹生川(2012年2月20日撮影)

 「昔はこの右岸沿いに上流に向かってたくさんの朝鮮の人たちの家が建ち並んで いました。目前の鉱山や駅裏の鉱山で働いておりました」とは、道端で出会った老婦人の話。橋は枝折川に架かる市口橋(昭和39年8月竣工)。 雪に覆われる霊仙山。右、米原鉱山。

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