奥田製油所  滋賀県神崎郡能登川町


 JR能登川駅近くに奥田製油所跡がある。現在は駐車場や倉庫等になり、奥田製油所の面影は 何もないが、同工場職工たちの社宅だったという長屋が今も残っている。
 奥田製油所の歴史は古く、過去には朝鮮人職工らによる大規模な労働争議もあり、奥田製油所職工社宅は「朝鮮村」と呼ばれるほ どに朝鮮人を多く雇い入れていた。しかし、その歴史を知る史料は少なく、人々の記憶からも消え失せかけている。



奥田製油所旧職工社宅(2012年8月17日撮影)

 奥田製油所設立の経過が滋賀県教育会編「近江の先覚」(非売品、昭和26年3月25日頒布)の中で

 製油工業の先覚 奥田平八(1855−1941)
 氏は岐阜県大垣市の人で、素封家であった大塚家の五男として生まれた。(中略)。たまたま岐阜県久瀬町の素封家で、油問屋を 経営していた奥田家に於ては、氏の並々ならぬ力量を認めると共に是非養嗣子として迎え家業を託したきものと厚く懇望されたので、 二十歳にして奥田家に入り、油問屋を経営する事になった。(中略)明治29年、地を神崎郡能登川町猪子に選び、地元有志と共に 最新式を誇る水圧式板締搾油機を装備した近江製油株式会社を設立したのである。(中略)不幸にして大正12年資本家等の意見不一致 の為、経営困難に陥ったので、豪腹な氏は遂に単独経営を決意、ここに現在の株式会社奥田製油所が出来たのである。(中略)。

と記録されていた。
 また、「氏が事業の上で努力した特筆すべき事柄」として、「中国へ渡り菜種の良品種を輸入し内地における栽培の改良普及に傾注 したこと」「東京震災に於ける原価供給による援助」「能登川発展を考え公共事業への寄附、土地の寄附、公会堂の建設等」と記され てあり、「油脂のアメリカへの輸出量は戦前に於ては全国の40%を占むるに至った」とある。

 しかし、大正12年の株式会社奥田製油所設立から3年後の1926(大正15)年、同所において労働争議 が起きる。そのときの様子が「滋賀県百科事典」(1984年7月10日大和書房発行)の中に、次のとおり記されてあった。

奥田製油所争議
 1926(大正15)年、神崎郡能登川の奥田製油所の朝鮮人職工は、同僚14名の解雇を契機として、賃上げ、待遇改善を要求して10月 4日ストライキを決行。大阪労働同盟会の応援を得て路上演説などを行い気勢をあげた。会社側は職工を補充し製造を続けたが、職工 側の団結もかたく持久戦となった。11日に県警察中谷警部補の調停で解雇者の復職は認めないが20日分の手当支給の条件で妥結した。 同じ時期の10月11日日本カタン糸会社で女工が(中略)5指全部を切断される労働災害が発生、能登川地方に労働組合結成の運動が起こ り、奥田製油、日本カタン糸などの労働によって1927(昭和2)年8月28日京都合同労働組合(評議会系)能登川支部が発足した。 (労働農民党 佐々木敏二)

 この労働争議等に関しては、平成24年3月刊行された「東近江市史 能登川の歴史 第4巻」にも次のとおり記録されている。

 「1926年9月26日、奥田製油工場社宅内で朝鮮人200余名が集まり、滋賀県朝鮮合同労働組合本部を創立」(東亜日報)

 「1926年10月9日、奥田製油工場の朝鮮人職工150余名がストライキに突入」(東亜日報)

 「1926年10月12日、奥田製油工場の同胞職工850名のストライキが勝利した」(東亜日報)

「朝鮮村を導く 生きた内鮮融和」(昭和11年(1936)7月9日付大阪毎日新聞)
 神崎郡五峰村には現在約百家族の朝鮮人が居住し、その大部分は奥田製油会社の従業員で同会社の社宅に朝鮮村を形成しているが、 内地語の話せる者は半数以下で寄留届すらしていない者もあり、今回五峰村役場・同小学校・所轄愛知川署・奥田製油会社が協力して 内地語講習、道徳心の涵養、衛生思想の普及などの講和会を毎月一日・十五日の2回開催し内地の慣習に染ましめ真の内鮮融和をはかる ことになり、(中略)各方面から注目されている

「朝鮮生れの児童 特別に教育する 五峰村の新考案」(昭和11年(1936)6月24日付大阪毎日新聞)
 神崎郡五峰村では、目下朝鮮人の就学児童が27名ありますます増加(中略)、朝鮮総督府へ朝鮮語に堪能な内地人教員の斡旋方を 依頼(中略)

「能登川では暴れる」(1951(昭和26)年8月30日付滋賀新聞)
 「能登川町北鮮系朝鮮人主催で29日午後1時から駅前広場で人民大会を開くため同町猪子奥田製油会社社宅(朝鮮人部落)で多数 集って準備を行なっている気配に地元町署では神埼地区署の応援を求め警戒する一方、(中略)朝鮮人に対し集会禁止の主旨を通達し た。(中略)目下小競合を演じ駅前は混乱を極めている

 「1953(昭和28)年1月、能登川町朝鮮人学父兄会が能登川町教育委員会に対し、能登川中学校での朝鮮語教育用の教室提供を要求」 (能登川博物館所蔵能登川町役場文書)

 「1954(昭和29)年12月18日、在日朝鮮統一民主戦線滋賀県能登川委員会が能登川町長に対し、朝鮮人の生活苦などを訴え善処を要求」 (能登川博物館所蔵能登川町役場文書)

奥田製油所旧職工社宅(2012年8月17日撮影)

 奥田製油所旧職工社宅の一角に「在日本朝鮮人聡連合会滋賀県湖東支部能登川分会」の看板が 掲示されていたが、空き家になっている様子だった。同旧社宅には5軒ほど人が住んでいる様子が伺えたが、当時の奥田製油所 関係者ではないという。

 なぜここに昔、「朝鮮村」と呼ばれた職工社宅が形成されたのか。1910(明治43)年8月29日に作り上げられた朝鮮併合により、 土地を奪われ、職を失った朝鮮民族の歴史を振りかえってみたい。

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