仏教教団もその歴史をみると、被差別部落の民衆を差別していた時代があった。例えば報恩講で、被差別部落の人を
本堂には入れず、本堂外の白洲にムシロを敷いて座らせ、「弥陀のお慈悲は平等である」等と説教を聴聞させていた、という。 そんな中、1922(大正11)年3月3日、京都・岡崎公会堂において、「烙印を投げ返すときが来た。(中略)人の世に熱あれ。人間に光あれ」と、 全国6000部落、300万人の大衆が一斉に立ち上がって全国水平社が創立、部落解放運動ののろしがあげられた。これがわが国最初の人権宣言であるとも 言われている。その中心となった人物が、奈良県の本願寺派西光寺の僧侶・西光万吉や滋賀県出身者の南梅吉ら。彼らは東・西本願寺を訪れて水平社運動 への協力を要請した。こうして簡略すると、さほどでもない歴史経過のように誤解されがちであるが、先にも後にも様々な辛苦、妨害があった。 一番驚いたのが時の政府。全国水平社創立は、民衆による最大の抵抗集団として、政府による異常なまでの運動弾圧が行なわれるようになる。水平社と いうのは恐ろしい集団であるという観念を一般大衆に植え付けることによって、それが現在も尾を引く大きな原因の一つとなっていったのである。 そんな障害を乗り越えて、1924(大正13)年4月18日、京都における全国水平社創立に感激した若者たち約380名が滋賀県甲賀市に所在する巖浄寺(ごん じょうじ)に集まり、滋賀県水平社創立大会が開催された。よって、同寺院が「滋賀県水平社」発祥の地と言われるゆえんである。 (参照:滋賀県教区120年史、滋賀県人権施策推進課 冊子「ここから」) ![]() 浄土真宗本願寺派 巖浄寺 (2012年3月6日撮影)
巖浄寺の住職は、人権研修などでここを訪れる人たちに滋賀県水平社の発祥の歴史を語り継いでおられる。
巖浄寺本堂 (2012年3月6日撮影)
本堂は30畳ほどの広さ。ここに、380人が集まって滋賀県初の水平社創立大会が開催されたというのだから、外にも
参加者はあふれ出ていたに違いない。
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